合戦のお話

厳島の戦いは毛利元就が知力で大内氏の重臣・陶晴賢を破った戦い

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★日本三大奇襲とは?

 皆さんは、「日本三大奇襲」という言葉を聞かれたことはありますか?

 「日本三大奇襲」とは、一般的に言われているのが、次のとおりです。

1 桶狭間の戦い

  織田信長が、今川義元を桶狭間山で昼食中に襲いかかった戦い

2 川越夜戦

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  川越城奪回を狙った上杉氏を北条綱成が返り討ちにした戦い

3 厳島の戦い

  毛利元就が、当時の有力大名大内氏の軍勢二万人に対して、毛利軍四千人で打ち破った戦い

 今回は、上記のうち3つ目の毛利氏の躍進のきっかけとなった厳島合戦について、ご案内します。

★厳島の戦いの簡単でわかりやすい概略

 厳島の戦いは、天文二十四年(1555年)に行われた戦いです。

 四千の軍勢の毛利軍が、二万をようする大内軍に勝利した戦いです。

 この戦いをきっかけに、毛利元就は中国地方の覇権に大きく近づくことになりました。

 単純に戦力を比較すると、当時の毛利軍の方が、兵力的には圧倒的に不利な状況で、大内軍の大勢力に太刀打ちできるはずはありませんでした。

 また、この戦いは奇襲戦とはいうものの、織田信長が仕掛けた桶狭間の戦いのように、相手が休息をとっているときに攻撃をするという、不意討ちのようなやり方ではありませんでした。

 では、どうして、兵力として少数の毛利軍が勝利することができたのでしょうか。

 それは、毛利元就の用意周到な知略と謀略で、敵方のお家事情に付け込んだ上に、毛利家に内紛が起こりつつあるという虚偽の噂を流して、厳島という狭い土地に2万人という多くの軍勢をおびき寄せ、身動きが取れない状態の敵方を挟み撃ちにして壊滅させるという戦術を使った戦いなのでした。

★毛利氏を取り巻く状況

 元々、毛利氏は安芸(現・広島県)の一豪族にすぎず、尼子氏、大内氏という二大勢力に囲まれ肩身の狭い思いをしていました。

 このため、当主の毛利元就も、幼き頃は孤児のような環境に置かれたこともあり、裕福な大名とはかけ離れたところで育ちました。

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 しかし、若くして元就が当主となると、その若き元就の成長に沿うように、毛利氏は勢力を増していき、大名への架け橋を駆け上がっていくのでした。

 一方、大内氏は、周防(現・山口県)の守護を務める名門で、最盛期には九州にまで勢力を広げた有力大名でした。

 しかし、厳島の戦いの四年前、大内氏の家内で内紛が起こります。

 大内氏の重臣・陶晴賢が、当主・大内義隆に対して反旗を翻し、大内義隆を自刃に追い込んだのでした。

 しかし、その後も名目上の主家は大内氏でしたが、実権は重臣・陶晴賢が握っている状態でした。

★毛利元就の謀略

 元就は、こうした大内氏の内情を、つぶさに把握します。

 そして、大内氏を攻め滅ぼす絶好の機会を、虎視眈々と伺っていました。

 元就は、まず、大内氏の実権を持つ陶晴賢の名参謀として知られる江朗房栄が、元就に通じて謀反を企んでいるという噂を流します。

 この噂が流れた当初、陶晴賢は噂を一笑に付していましたが、江朗房栄の筆跡をまねたニセの手紙を見せられると疑心暗鬼に陥り、最終的には江朗房栄を殺してしまいました。

 これによって、元就は、大内氏の戦略の要となる人物を排除することに成功したのでした。

★戦いの場所を厳島に

 そして、元就は、大内氏との合戦の場所を厳島に選びました。

 厳島は、周囲が約三十キロの小島で、島内には聖域とされる厳島神社があります。

 厳島は、毛利氏の本拠地からは遠いものの、元就はこの地に急いで宮尾城を築城して大内氏の大軍に備えました。

★毛利氏の重臣から手紙を送らせる 

 そして、元就は、その一方で大内軍をおびき出すための裏工作を進めます。

 それは、毛利氏の重臣に「元就は寄る年波で家臣の言うことを聞かず、毛利の滅亡は間違いない。大内軍が元就を追ったら、自分は背後から出て元就を討つ。」という虚偽の手紙を書かせて、大内側に送りつけたのでした。

★厳島の戦いに村上水軍を味方に引き込む

 また、元就は、瀬戸内海の海賊・村上水軍を味方につけました。

 元就が村上水軍を味方につけた理由は、厳島への兵力輸送を確保するとともに、逃げる大内軍を押さえこむためでした。

 元就は、村上水軍を率いる村上武吉に「一日だけ力を貸してほしい」といって援軍を要請したといわれています。

★毛利元就は厳島の戦いで陶晴賢を自害に追い込む

 こうして元就が万全の準備をしたところに、罠にはまった陶晴賢が率いる大内軍二万人の軍勢がやってきました。

 陶晴賢が率いる大内軍が厳島に上陸したのは九月二十一日。

 一方、毛利軍は九日後の三十日の夜半に厳島に向かいました。

 そして、村上水軍も同じタイミングで厳島に到着し、毛利軍は二手に分かれて厳島に上陸しました。

 翌十月一日の早朝、遂に戦いが始まります。毛利軍は、大内軍に対して、海と背後の山の両方から一斉攻撃を仕掛けます。

 大内軍の二万人もの兵士たちは、小さな厳島のなかに閉じ込められたような形になって思うように動くことができず、混乱するばかりでした。

 このため、反撃らしい反撃もできないまま壊滅、陶晴賢も自刃したのでした。

 このようにして、厳島の戦いは、毛利軍の圧勝に終わったのでした。

★厳島の戦いの奇襲と他の奇襲との違い

 一般的に奇襲は、織田信長の桶狭間の戦いのように、大きな勢力(今川義元)が、小さな勢力(織田信長)に攻撃をしてくるので、やむを得ずに、小さな勢力が立ち向かっていくために奇襲するというイメージがあります。

 また、或いは夜襲を仕掛けるように、不意打ちをくらわせるというイメージがあります。

 しかし、この厳島の戦いの場合は、小さな勢力(毛利氏)から、大きな勢力(大内氏)に謀略を仕掛けていって打ち破ったというもので、他のものとは性質が異なっているものだと思われます。

 つまり、厳島の戦いは、よく奇襲が勝利をもたらしたと言われていますが、実はその陰で元就が周到に策を練っていたもので、それは奇襲というよりも、元就の知力の勝利だった言えるのではないでしょうか。

★厳島の戦いのその後と厳島神社への敬意

 厳島の戦いの終了後、元就は、勢力が陰り始めた大内氏を吸収します。そして、毛利氏は、大大名への階段を上り始めるのでした。

 そして、元就は、戦いに勝つためであったとはいえ、聖地を戦いで汚してしまったことを詫びて、厳島神社の保護に努めました。

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