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源頼朝の死因の謎、落馬して水死って本当?

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★源頼朝は鎌倉幕府を開いた歴史上の重要人物

 源頼朝というと、鎌倉幕府を開き、初めての武家社会を作った歴史上極めて重要な人物です。

 そして、その栄光ある鎌倉幕府の初代将軍の死因は、落馬とされています。

 鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には、「建久九年(1198年)、相模川の橋の落成供養が行われた際に出席し、その帰路に落馬して、それからまもなく死去された」と記述されているのです。

 そして、落馬したのは建久九年(1198年)十二月二十七日で、一方で亡くなったのは建久十年(1199年)一月十三日とされており、頼朝は落馬後の二週間以上は生きていたことになります。

 しかも、頼朝が騎乗していた馬が橋の上で突然に暴れ出し、川に落ちた頼朝一人だけが水死となっているのですが、その場合、二週間以上生きていたというのは違和感があります。

 今回は、この源頼朝の死因の謎について、御案内していきます。

★源頼朝が落馬して川に落ちて水死なんてあり得るのか?

 前述のとおり、頼朝の死因については、鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」によると落馬による死亡と記述されています。

 しかも、頼朝が騎乗していた馬が橋の上で突然に暴れ出し、川に落ちた頼朝一人だけが水死したことになっているのです。

 しかしながら、武芸には長けていたと言われていた頼朝が、溺れて死亡するということ自体に違和感を覚えます。

 仮に、武芸には長けていても泳げないということも考えられますが、橋の落成供養に出席した帰路ということであれば、周囲には何人かの数の家臣も従事していたでしょうし、その中には、海に囲まれた鎌倉なので、泳ぎに自信のあるものも多数いたと思われます。

 仮に、トップである将軍が、暴れ馬が原因で川に落ちてしまった場合、家臣団がこぞって助けにいくのではないでしょうか?

 やっぱり水死には、非常に違和感があります。

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★源頼朝の死因に関する謎

 次に、鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」にも不可解な点があります。

 まず、「吾妻鏡」の不可解な点の一つ目は、頼朝の死亡する三年前からの記述が、一切残っていないことです。

 これは、三年間もの間、記載されていなかったということが考えづらく、編纂の段階で不都合な記載を抹消するために、その内容を削除したと考える方が自然であると思われます。

 そして、更に「吾妻鏡」の不可解な点の二つ目は、頼朝の死因に関する記述が、死後13年経過後に記載されているということです。

 頼朝は鎌倉幕府の創設者で鎌倉幕府最大の功労者です。その最大の功労者である初代将軍が亡くなったことに関することなので、死後13年経過後に記載するというのは、余りにも違和感があります。

★源頼朝は墓も建てられず、子孫も北条氏によって殺された?

 このため、ささやかれるようになったのが、「頼朝暗殺説」です。

 この暗殺の犯人については、諸説ありますが、大きく分けて「北条氏暗殺説」、「朝廷暗殺説」の二種類に分かれます。

 特に、北条氏説については、誰もが最初に疑いを持つ対象になると思われます。

 実際に、二代将軍・頼家、三代将軍・実朝は、実質的に北条氏によって殺されたと言っても過言ではありません。

 また、頼朝暗殺の動機も、二代将軍・頼家、三代将軍・実朝を殺したときと同じで、今後の北条一族の繁栄のため、源氏の一族が邪魔になったということであれば、理屈に合います。

 それに、この頼朝の死亡に関しては、真実を記述しているとは言いがたい「吾妻鏡」を編纂したのは北条氏ですし、頼朝の死後は、その墓も建てられることはありませんでした(現在の頼朝の墓は江戸時代になって建てられたものです。)。

★朝廷による暗殺説

 しかし、朝廷暗殺説も有力だという意見もあります。

 この場合、頼朝暗殺の動機は、鎌倉幕府成立によって移行してしまった政権を朝廷に戻すためということになります。

 この当時、朝廷では、土御門通親(つちみかどみちちか)が権勢を握っており、反幕派公卿グループのリーダー的な存在でした。

 そして、土御門通親は、「明月記」の記述によると、「頼朝の死を聞いても全く驚かず、用意していたかのように反幕派の公家を要職に就けた。」と記述されているのです。

 しかし、土御門通親は京都にいて、直接的に頼朝暗殺を実行することはできませんので、別に実行犯が必要になってきます。

 そうすると、実行犯は誰なのか?その最有力候補とされているのは、鎌倉幕府政所別当の大江広元です。

 この大江広元は、もとは京都から派遣された公家であり、土御門通親とも通じ合ってあっていました。

 しかも、頼朝からも信頼されており、近づいていって、例えば毒を盛るといったこともできたものと思われます。

 さらに、幕府の中には、大江広元以外にも、頼朝の側近として働きながらも朝廷とつながっていた者も大勢いたと言われています。

 こうしてみると、頼朝は、北条氏といい、公家といい、敵ばかりに囲まれて政務をしていたのですね。

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