歴史上の人物

中岡慎太郎の志は土佐勤王党の仲間に引き継がれる

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 明治維新は、薩摩藩、長州藩の若者が中心になって行われていきました。

 しかし、ご承知のとおり、「薩長同盟」以前の両藩の仲は悪く、この同盟がなければ、明治維新が成し遂げられていたか否か分からないとまで言われています。

 そして、この「薩長同盟」を成功させたのは、中岡慎太郎と坂本龍馬という土佐出身者でした。

 彼ら土佐出身者は、高い志を持って、新しい日本を切り開くためには何が足りないか、どうすれば列強諸外国に対抗できる国づくりができるのかを考え、そして行動していきます。

 しかし中岡は、龍馬とともに、見廻組によって暗殺されますが、彼の高い志は土佐勤皇党の仲間に引き継がれていくのでした。

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 今回は、中岡慎太郎のお話をご案内します。

★武市半平太による土佐勤王党の呼びかけに中岡慎太郎も応じる

 文久元(一八六一)年九月、武市半平太の呼びかけのもと、高知城下の小さな剣術道場に、土佐の各地からおよそ二百人の若者たちが集まりました。

 この組織の名は「土佐勤王党」といいました。

 この「土佐勤王党」の日的は、京都の朝廷のもとで力を合わせ、幕府に圧力をかけて日本を立て直そうというものでした。

 この当時、土佐藩では、関ケ原の戦い以後、土佐を支配した山内家の家臣が上級武士として藩の要職を独占していました。

 このため、元々土佐の地侍たちは、下級武士とされて、様々な差別を受けていました。

 このような下級武士たちの抑圧された思いが、時代を変えようという熱い志を生み出し、山間の農村へも広まり、武士以外でも勤王党に加わりたいという志を持つ者も現れたのでして。

 中岡慎太郎も、その中の一人でした。

★中岡慎太郎の生い立ちと武市半平太との出会い

 中岡慎太郎は、庄屋の家に生まれなので、食べるものに困るようなことはありませんでしたが、周囲の農民の飢鍾に苦しむ姿を目の当たりにしてきました。

 このため、中岡も藩などの力に頼らず、自分たちの力で農民を守っていかなければと決意を固めて、土佐勤王党へと加わりました。

 そして、土佐勤王党のリーダー・武市は、土佐藩の幹部と会見し、「西国の有力藩である長州・薩摩、そして土佐が藩を上げて京都に集結して幕府に対抗する勢力をつくり、朝廷中心の政治が行われるよう活動するべきだ」と訴えました。

 しかし藩の幹部は、「現実離れした空論である。幕府に睨まれるようなことを軽々しく口に出して、周りの人達を煽動するな」と審議の対象にもせず却下しました。

 このため、武市は危険な賭けに出ます。

 文久二(一八六二)年四月八日、土佐藩の最高幹部・吉田東洋を暗殺しました。

 そして、それを機に、武市は土佐藩の中で徐々に発言力を増していきました。

 さらに、武市は、京都に土佐勤王党員を送り込み、公家たちに対して、土佐藩が今後朝廷のために力を尽くすことを説いて回りました。

 つまり、武市は、政権を将軍から朝廷へ返させることを目指していたのでした。

 そして、その甲斐あってか、同年八月二十五日、朝廷は土佐藩主を京都に呼び出し、重要な役職を与えます。

 武市の計画は、順調に進んでいるようにも見えました。

 しかし、文久三(一八六三)年九月二十一日、武市をはじめ、土佐勤王党の幹部たちは土佐で次々と逮捕されてしまいます。

 これは、土佐藩の上層部が、これ以上に討幕活動をすることにためらい、弾圧を始めたのでした。

★中岡慎太郎も「禁門の変」に参戦

 元治元(一八六四)年七月「長州藩は二干の軍勢を京都郊外に集結させます。

 勤王を強く主張する長州は、自分たちの立場を朝廷に伝えようとしたのです。

 この時、長州側の中に、土佐を脱藩した中岡慎太郎の姿がありました。

 土佐藩が弾庄を始めたため、中岡はやむなく長州藩を頼り、他の勤王党員数人と亡命していたのです。

 しかし事態は一変します。七月十九日、長州の過激な行動に、幕府と諸藩が反発します。

 世にいう「禁門の変」が勃発したのでした。

 この戦いで、西郷隆盛率いる薩摩軍は幕府側についてしまいます。

 この薩摩の行動は、長州藩の勢力が拡大することを恐れたものでした。

 そして、この戦いで長州藩は敗れます。

 そして、多くの土佐勤王党員も長州藩側として参加していたため、命を落としてしまうものが多数でてしまいました。

★中岡慎太郎は窮地におちいり西郷隆盛に直談判へ

 そして、一方で土佐でも状況は悪化の一途をたどります。

 吉田東洋暗殺の疑いをかけられた勤王党員たちは次々と厳しい拷問にかけられます。

 また、中岡の故郷の奈半利川では、武市たちの釈放を求め決起しようとした同志二十三人が、反乱の罪で逮捕され、処刑されてしまいます。

 さらに禁門の変の後、長州藩は朝敵とみなされ、幕府や薩摩などの連合軍十五万によって包囲されてしまったのでした。

 この苦しい状況に、窮地に立たされた中岡は、土佐勤王党の幕府に立ち向かうという目的を達成させるためには、長州と薩摩を和解させるしかないと考えます。

 そして、元治元年十二月四日、長州を包囲する薩摩軍の指揮官・西郷隆盛との面会に臨んだのでした。

★中岡慎太郎と西郷隆盛との約束

 中岡は、西郷との面会に際して、薩摩があくまで幕府と共に長州を滅ぼすつもりであるならば、西郷と刺し違える覚悟を持っていました。

 しかし西郷は、長州に対してこれ以上攻撃する意志がないことをにおわせます。

 薩摩にすれば、長州が壊滅してしまうと、幕府の権勢が大きくなり、今度は薩摩藩にもその危険が及ぶと考えていたのでした。

 薩摩の真意を察知した中岡は、一気に薩長和解工作へと走り始め、西郷を長州に連れていき、下関で桂小五郎と面会させるという約束を取り付けたのでした。

★中岡慎太郎の思いも虚しく西郷隆盛のドタキャン

 しかし、一方で、慶応元(一八六五)年閏五月十一日、土佐勤王党のリーダー・武市は土佐藩から切腹を命じられてしまい、中岡を悲しませます。

 けれども、中岡は、武市の死の五日後、中岡は西郷と共に、船で薩摩から長州に向かいます。

 ところが、土壇場になって西郷が会見を拒否したのでした。

 このドタキャンに、桂小五郎は激怒します。しかし、中岡は必死で釈明を続けて、次の機会が設けられるよう画策するのでした。

 この時、もう一人、土佐勤王党の同志が立ち上がります。

 坂本龍馬です。

 龍馬は、土佐を脱藩してから三年が経過して、中岡とは違った道で、薩摩と長州を和解させようとしていたのでした。

★坂本龍馬の活躍

 龍馬は、土佐勤王党の仲間たちを集め、長崎で貿易商社・亀山社中を起こし、商売をしていました。

 その貿易商としての能力を必要としたのが長州藩でした。

 長州は、小藩であるがゆえ、大軍と戦うための外国製の軍艦と銃を揃えることが喫緊の課題でした。

 しかし、長崎には幕府の目が行き届いており、軍艦と銃を購入できずにいたのでした。

 そこで龍馬は亀山社中に指示し、薩摩藩の名義でイギリス製の軍艦と武器を購入しました。

 そして、慶応元年八月二十七日、その薩摩藩の名義で購入した軍艦が、長州の港に入港します。

 これで、長州藩は最新式の武器を手に入れることができたのでした。

 これにより、薩摩と長州の距離は近づきます。

 このとき、徳川幕府は京都の朝廷を動かし、正式に長州を朝敵として征討するように働きかけており、諸藩への協力を求めていましたが、薩摩藩の大久保利通と西郷隆盛が反発したのでした。

★中岡慎太郎の悲願であった「薩長同盟」の成立

 その三か月後の慶応二(一八六六)年一月八日、京都で、薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎の会談が始まりました。

 しかし、話し合いが十日間に及んでも、西郷と桂はみずから和解を切り出そうとはしません。

 やはり、イザとなってみると、お互いのプライドと、過去の因縁がこれを邪魔をしたのでした。

 しかし、龍馬は諦めず、懸命の説得を繰り返します。

 これに西郷が折れてくれました。

 ここに、慶応二(一八六六)年一月二十二日、坂本龍馬の立ち会いのもと、薩摩と長州は和解し、いわゆる「薩長同盟」が成立したのでした。

 ここで、武市半平太から始まった土佐勤王党の悲願であった維新への道が、大きく動き出した瞬間でした。

★「大政奉還」が行われる

 この「薩長同盟」締結から半年後の慶応二年六月、幕府軍が長州への攻撃を開始しました。

 世にゆう第二次長州征伐です。

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 この時、長州軍は薩摩の援助によって手に入れた最新式の兵器を使い、三十倍の数の幕府軍を撃退したのでした。

 そして、長州・薩摩の連合は、幕府打倒に向け突き進み、大政奉還へと辿りつくのでした。

★中岡慎太郎の志は土佐勤王党の仲間に受け継がれる

 その矢先の十一月十五日、坂本龍馬と中岡慎太郎は、京都の近江屋で見廻組に襲われてしまい、死亡します。

 龍馬は享年三十三歳、中岡は享年三十歳でした。

 その後、時代は流れて明治新政府となり、土佐勤王党の若者たちが志一つに待ち望んだ新たな世の中は、薩摩と長州の派閥が政治を独占する藩閥政治の時代となりました。

 するとこれに反発するように、土佐でまた新たな政治活動が始まりました。

 これが、自由と平等を掲げ、議会の開設と地方自治を求めた自由民権運動です。

 この中心になったのが、中岡慎太郎の盟友・板垣退助や、坂本龍馬に従っていた中江兆民などでした。

 「自由は土佐の山間から」  常に理想の時代を追い求めた土佐勤王党の志は、生き続けたのです。

 中岡慎太郎は、今後の進むべき道に悩む故郷の後輩にこのように語っていました。

 「志とは、目先の貴賎で動かされるようなものではない。望むべきは,その先の大いなる道のみである。今、貴いと思えるものが、明日は購しいかもしれない。今、賎しいと思えるものが、明日は貴いかもしれない。君子となるか、小人となるかは、家柄の中にはない。君・自らの中にあるのだ」

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