歴史上の人物

高杉晋作は奇兵隊を作って新しい時代を切り開き、宍戸刑部を名乗り日本の植民地化を防ぐ

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 高杉晋作は、時代は幕末、場所は長州藩の萩に生をうけました。

 高杉は、14歳の頃、上級武士の指定が通う明倫館に入りますが、落第を繰り返しました。

 高杉は、決まりきった仕事、勉強に何の魅力も感じなかったため、落第を繰り返したのでした。

 しかし、安政4年(1857年)19歳で吉田松陰の松下村塾に入ると、そこで人間の能力は地位や身分とは関係がないことなどを学びました。

 この当時、日本はアメリカの圧力で開国させられたばかりで、外国に侵略されてしまうのではと人々の間で不安が広がっていました

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 そんな中、松陰は、欧米列強の軍事力の脅威を説くとともに、徳川幕府の外交政策を強く批判しますが、安政6年(1859年)に安政の大獄で捕らえられて、処刑されてしまいます。

 しかし、世の中は明治維新に向かって、新しい時代の流れの向かっていき、高杉もその中で、自分の信念の基づいて戦いを繰り広げていきました。

 今回は、この高杉晋作のお話を御案内させていただきます。

★高杉晋作が危機感を持った中国・上海の光景

 高杉は、前述のとおり、吉田松陰から大きな影響を受けます。

 そして、高杉は、この師匠を失いますが、その胸に宿ったのは松陰が果たせなかった外国視察の夢でした。

 その後、文久2年(1862年)、高杉は藩の代表として中国・上海の視察に派遣されるチャンスを得ました。

 そして、高杉は1週間の航海の後、ようやく中国・上海に到着します。

 そこで、高杉が見た光景は、西洋人に牛馬のようにこき使われる中国人たちの姿でした。

 「上海は英仏の属地となれり」と、当時24歳だった高杉はものずごい危機感を募らせます。

 このままでは、日本も中国と同じ運命をたどってしまう、絶対に徳川幕府に、今のまま日本の舵取りを任せておくわけにはいかない、と高杉は決意しました。

★帰国後の高杉晋作の行動

そして、2ヶ月後日本に帰ってきた高杉が一番初めにしたことは、同士を募り、徳川幕府打倒計画することでした。

この高杉の行動に驚いた長州藩の重臣は、高杉を訪れ、言動をつつしむように諭します。

重臣たちは、高杉の上海で見た光景を理解しつつも、「10年経ったらお前の言うような時期が来る。それまで待て。」と高杉を説得しました。

しかし、高杉は、「それなら、その時が来るまで、10年暇をもらいましょう。」と、重臣の事なかれ主義の思考に高杉は怒りをあらわにし、山奥に引きこもってしまいました

★馬関戦争(下関戦争)の始まりと講和

 文久三年(1863年)、あくまで外国との開国に反対する長州藩は、下関の関門海峡を通る外国船を砲撃します。

 これは、当時、攘夷をかかげる朝廷と幕府の命令を、そのままに実行して、仕掛けた戦いでした。

 そして、その一か月後、外国船が報復攻撃のために長州に襲来しました。

 このとき、近代的な兵器と組織を持つ外国軍に対して、長州藩の武士たちはまともに戦うこともできず逃げまどうばかりでした。

 また、この時期に、藩主の前に呼び出された高杉は意見を求める藩主にこう答えます。「有志の士を募り、一帯を創立し、名付けて奇兵隊といわん」

 奇兵隊は身分を問わず志のある者なら誰でも取り立てる、つまり身分よりも本人の力量・能力を重視すると言うものです。松下村塾で学んだ教えを生かした方針でした。

 結果、奇兵隊に参加した隊士の半数以上は農民や町人でした。彼らは自分たちの国は自分たちで守ると言う気概を持ち始めていたのです。

 また、奇兵隊に続いて、藩内に諸隊と呼ばれる民衆の部隊が次々と結成されていきました。

 ところが、農民や町人が武器を持つことを快く思わない武士たちと奇兵隊が対立、奇兵隊が武士を斬り殺すという、事件が起き、高杉は奇兵隊の指揮官の任を解かれてしまいました。

 さらに、高杉は軍事行動のあり方をめぐって他の藩士と対立し、藩を抜け、その罪を咎められて牢に幽閉されてしまいました。

★馬関戦争(下関戦争)の講和

 元治元年(1864年)、京都の旅館池田屋で長州藩の主だった藩士たちが幕府の命を受けた新選組に斬り殺されるという事件が起きたのをきっかけに、長州藩と幕府との対立は決定的なものとなります。

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 さらに、アメリカ、フランス、オランダ、イギリスの4カ国が17隻の艦隊で関門海峡に襲来すると、万策尽きた藩政府は一転して高杉晋作に望みを託します。

 4ヶ月におよぶ幽閉を解かれた高杉は外国艦隊との停戦交渉を命じられます。

 この時、高杉は、家老・宍戸備前の子とする宍戸刑部を名乗り、四国連合艦隊旗艦のユーライアラス号に乗り込んでキューパー司令官との談判に臨みます。

 イギリス側通訳のアーネスト・サトウは、この時の宍戸刑部と名乗った高杉の様子を非常に傲然としていたと述べています。

 外国艦隊が停戦の条件として要求したのは三百万ドル、今の日本円で数百億円という巨額の賠償金でした。ここで高杉はその交渉で1歩も引かず、外国艦隊との戦争の責任はもともと幕府にある。請求は幕府に行え、と主張します。

 一方、この談判の際に、高杉が下関の本州から少し離れた彦島の租借だけは断固として拒否し、上海のような外国の領土になるのを防ぎました。

 なお、交渉の中で、それでもなお彦島の租借を強くものめられた高杉は、毅然とした態度で「古事記」を暗唱し、通訳のアーネスト・サトウを困らせます。

 結局、何とか彦島が外国領とならずにすんだのでした。

 そして、賠償金は幕府に請求されることになり、講話条約が結ばれました。

 もし仮に、この時、彦島をイギリスに取られていれば、日本も列強諸外国の植民地への道へと進んでいたのかも知れません。

★幕府による長州征伐が始まる

 こうして外国艦隊の脅威を免れた長州藩でしたが、その後もう一つの危機が迫りつつありました。幕府による長州征伐の進軍が始まっていたのです

 十五万の幕府軍に対し、長州藩の兵はわずかに四千。長州藩内では、幕府に膝を屈して許しを乞おうとする保守派が、高杉たちの追放を図ります。

 高杉の同士は襲われ、重傷を負わされました。

 高杉も暗殺者に命を狙われます。

 身の危険を感じた高杉は、長州藩を離れ、福岡に身を隠しました。

★高杉晋作は、たった80名で挙兵して歴史を動かす

 元治元年11月、幕府は長州藩に降伏を迫り、家老三名の切腹を要求します。

 そして、藩の実権を握る保守派は幕府に屈し、その要求を受け入れることにしました。

 結局、家老3名は切腹し、その他、長州軍の参謀4名が処刑されました。

 この情報は九州に身を隠していた高杉の下にも届きました。

 このままでは、長州藩はつぶれ、日本の改革は頓挫してしまう。高杉は危険をかえりみず、1人長州藩へ舞い戻り、奇兵隊の駐屯地を訪ねます。

 しかし、奇兵隊の中には、決起は無謀だとする意見もありました。奇兵隊が三百人。対する長州藩保守派の兵は、二千。さらに、その背後には十五万の幕府軍がいます。

 到底勝ち目はありません。

 高杉は奇兵隊の駐屯地を飛び出し、奇兵隊以外の隊を回って、決起を呼びかけます。

 その呼びかけに応じて下関の功山寺に姿を見せたのは、松下村塾の後輩・伊藤俊輔(のちの博文)が率いる力士隊十数名と、猟師たちによる遊撃隊の隊士たちおよそ60名のわずか80名に過ぎませんでした。

 だが志を持つ者が集まれば、たとえ数が少なくとも時代を犯す力となる高杉は叫びました。

 「これより長州男児の腕前をお目にかける」

 高杉は藩の役所を制圧すると同時に、藩内の各地に協力を訴えます、

 その呼びかけに応じて高杉の下には次々と人が集まり、奇兵隊士も決起を決断し、高杉の軍は三千もの兵力に膨れ上がりました。

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★高杉晋作が長州藩の保守派の勝利し新しい時代を切り開く

 そして、元治二年(1865年)、高杉の軍は長州藩の保守派の軍に勝利。藩内から保守派はすべて追放されました。

 さらに、長州藩は再び幕府に対して立ち上がることになりました。

 これは、一人が八十人を動かし、三千人を動かし、この波はやがて日本全体を動かすことになっていったのでした。

 しかし、高杉は藩の要職につくことはありませんでした。

 高杉は、こう述べています。

 「人は艱難は共にできるが、富貴は共にできぬ」人は苦労なら共にできるが、富や名誉を分かち合うことはできないものだ、というのです。

 そして、藩を去った高杉は、イギリス留学を志し、長崎に向かいました。

★高杉晋作が十万の幕府軍にも勝利する

 高杉晋作の決起が成功したことを知った幕府は、再び長州へ軍勢を送ります。

 いわゆる第二次長州征伐です。

 またしても、長州藩が高杉を必要とする時がやってきました。

 高杉は留学を中止して長崎から舞い戻り、夜、船に乗って敵艦隊の停泊地へ向かいます。

 まさか夜に攻撃してくるとは思わなかった幕府艦隊は混乱に陥り、高杉は大勝利を収めました。

 そして、この勝利をきっかけに、三千五百人の長州軍は、十万を超える幕府軍を次々と打ち破っていき、徳川幕府の終焉は決定的なものとなっていきます。

 しかし、長州軍が勝利に沸き立っている時、高杉は突然血を吐いて、倒れてしまいます。肺結核でした。

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★高杉晋作の詠みかけの歌

 肺結核に侵された高杉は、日々やつれていく病の床で、最期に歌を詠もうとしました。

 「面白き事もなき世を面白く・・・」

 しかし、この歌を完成させることはできませんでした。

 高杉晋作享年わずか二十九歳。その歴史的役割を十分に終えた人生でした。

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