戦国時代に、徳川家康を何度も痛めつけた六文銭の旗指物でおなじみの真田家ですが、この真田家が明治維新まで大名として生き残れたのは、小松姫のお陰の働きによるところも大きいと言われています。
この小松姫は、家康の四天王の一人である本多忠勝の娘でした。
小松姫を語る上で欠かせないのが、親子で敵となった関ヶ原の戦いを前にして、義父・真田昌幸が「敵・味方となる前に孫の顔がみたい。」と言って沼田城に訪れた際に、見事な対応で城内に入れなかったことだと言われています。
この対応自体でも賞賛すべきですが、その相手が、あの戦国一の策士である真田昌幸を相手にしてのものですので、特筆に値すべきものだと思われます。
今回は、この小松姫について御案内させて頂きます。
★真田信之と小松姫との結婚
戦国の世を、様々な戦略と謀略で乗り越えてきた真田昌幸、徳川軍が完敗したのは三度ありますが、そのうちの1回は武田信玄との三方ヶ原の戦い、残りの2回は真田昌幸との戦いでした。
昌幸の戦い方は、戦力としては圧倒的に不利にある中、いつも相手の虚を突くもので、城の構造を活かした戦略で相手にダメージを与えていくものでした。ちなみに、その戦い方は、後日、大坂冬の陣、夏の陣で活躍する息子・幸村に引き継がれていきます。
しかし、真田昌幸と家康の間に、羽柴秀吉が仲介に入ってくれて和睦となります。
そして、天正18年(1590年)、北条氏は小田原征伐で敗れると、豊臣秀吉は北条氏の持ち城となっていた沼田城を真田家に戻します。
そして、真田昌幸は、この沼田城を嫡子・信之(信幸)の居城とし、小松姫を迎えました。
小松姫は、本多忠勝の娘ですが、家康の養女として真田家に嫁ぎました。このとき、真之は25歳、小松姫は18歳でした。
★関ヶ原の戦いは親子で敵味方に別れる
家康が関ケ原の戦いを仕掛ける発端になったのは、会津の上杉景勝が上洛せず、これを陰謀ありとみて関東へ出兵したことによるものでした。
この時、真田昌幸は信之の弟である幸村とともに、上田城から現在の栃木県佐野市の犬伏にいて、家康の傘下に属していました。
また、同時に、信之も、家康からの命令により、参陣のため馳せ参じており、宇都宮に滞在していました。
そして、ある夜、昌幸の幕舎に石田三成からの挙兵を挙げるという密書が届きます。
このため、昌幸は、40キロ先の宇都宮から犬伏に信之を呼びよせ、真田家の行く末を協議しました。
これが、あの有名な「犬伏の別れ」です。
「我々真田家にとって、一番重要なのは家名を残すことである。」
このため、親子で敵味方に分かれて戦えば、どちらかが次の時代に生き残ることができる、だから親子で敵味方に分かれようというものでした。
真田家は、信州真田の弱小土豪から出で、上杉、武田、北条、徳川の狭間で、家名を存続させていくことは容易ではなかったため、それは当時、賢明な選択でした。
そして、それぞれの妻の実家の関係からも、親、兄弟が敵と味方に分かれたほうがいいということになったのでした。
信之の妻は家康の養女である小松姫、昌幸の妻は三成の妻と姉妹、幸村の妻は三成の盟友・大谷吉継の娘だったからでした。
★小松姫が義父・昌幸の入城を拒否
このため、昌幸と幸村は、夜陰に乗じ、徳川の陣営を離脱します。
二人は馬を急がせました。
しかし、上田城への最短距離である碓氷峠を越えず、沼田へと回りました。
昌幸の考えは、「敵味方に分かれれば、父子とはいえ、もはや孫の顔も見られまい。それなら、小松姫に会って孫の顔を見ておきたい。」という気持ちでした。
このため、昌幸、幸村親子は100キロ近い道を数人の近習を従えただけで、沼田城の大手門に辿り着き、開門を要求しますが、城門は閉じたまま開きませんでした。
近習は怒って叫びます。「大殿が自分の子の城に入れぬとは何事だ。門を打ち破って押し入ろうぞ!」
その時、大手門上に、緋絨の鎧をつけ、薙刀をかかえた人影が見えました。
それは、間違いなく小松姫でした。
小松姫も、4人の子を産み28歳。結婚して10年以上を経って、一段と落ち着きを増したようでした。
そして、小松姫は大きな声で叫びます。
「父上といえどもいまは敵、城にお入れするわけには参りませぬ」
よく通る声は堂々として、きつく薙刀を握りしめた手は、一歩も引かぬ覚悟を物語っていました。
このときの小松姫の気持ちとしては、この沼田城内には、義父・昌幸とも深いかかわりを持つ家臣が沢山おり、その中から昌幸に従うと言って沼田城から抜け出すものがいるのではないと危惧してのことでした。
しかし一方で、祖父として孫の顔が見たいというのは理解できます。
そして、それであればと、武装した侍女たちを城外に出し、三百メートルほど離れた正覚寺に昌幸・幸村親子を案内しました。
小松姫は、正覚寺に長女・まん姫ら子を連れて訪れます。
昌幸は、孫たちを膝におき、しばし祖父としての時間を持ちましたが、部屋の外には不眠で侍女たちが警戒していました。
その後、昌幸と幸村を迫ってきた家臣、兵士たちも順次、城下に着き、小松姫はその労をねぎらい酒でもてなします。
若き幸村は、この兄嫁である小松姫の見事な立ち振る舞いに舌をまきながら、怒りを覚えます。
策士である昌幸・幸村親子ですから、スキがあれば、この沼田城を頂きたいと思ってました。
けれども、小松姫は、侍女たちを使って自分達親子を軟禁状態にして、沼田城の多くの兵士が出兵しているこのような状況でも、そのスキを与えなかったのでした。
翌朝、昌幸と幸村は、沼田を離れます。
朝霧の利根川を渡り、中山峠から頭を霧の上に出す沼田城を見ながら、「さすが本多の娘、真田の血脈もこれで安泰ぞ」と、昌幸は幸村につぶやいたといいます。
★関ヶ原の戦いのあとで
このあとの関ケ原の戦いでは、信之のついた東軍が勝利します。
そして、西軍についた昌幸、幸村親子は、関ヶ原の戦い自体には参陣しませんでしたが、関ヶ原への行軍途上の徳川秀忠軍に対して、いつもどおりの奇抜な戦略で行軍を妨げ、徳川秀忠軍2万5千人が関ヶ原の戦いに遅刻してしまったという事態を招いたとして当初は切腹を覚悟します。
しかし、ここでも信之と小松姫の相当な尽力により、昌幸、幸村親子は、紀州九度山への流刑となったのでした。
★その後の真田家
信之と小松姫は、関ヶ原の戦い後、父・昌幸の思い入れのある上田城を居城とします。
その後、上田城にいた晩年の小松姫は、北国街道を行く大名家の将軍家への献上品をよく失敬していたそうです。
「われは家康さまの養女、将軍に渡すものならば、頂いてもかまいはしまい」と言い、懐紙にべたり手形を押し、「この手が大名家の献上品を頂きました」と、それを将軍秀忠へ届けさせたヒの逸話もあります。その茶目っ気が伺えます。
そして、元和六年(1620年)、小松姫は、江戸で病み、草津へ療養に行く途中のいまの埼玉県の鴻巣で容熊が急変して48歳で亡くなってしまいます。