伊達政宗は、生涯を通じて逸話の多い人物です。
その中でも、政宗の若い頃の逸話には、父・輝宗が敵・畠山義継に拉致されているにもかかわらず、「自分に構わず義継を撃て」という父・輝宗の言葉に聞き、自分の鉄砲隊に一斉射撃を命じたというものがあります。
これは、粟之巣の変事と呼ばれていますが、一部の専門家の中には、史実と異なるのではないかとも言われています。
今回は、この粟之巣の変事に関して、ご案内します。
目次
★粟之巣の変事の概略をわかりやすく
政宗が父・輝宗から家督を継いだのは天正12年(1584年)、まだ18歳のときでした。
そして、その翌年、政宗は小浜城を占領するため、城主・大内定綱を戦いますが、戦況は膠着します。
すると政宗は、大内氏と手を組んでいた二本松城主・畠山義継に対して攻撃を開始します。
これに対して、義継は、政宗への降伏を申し入れてきました。
しかし、政宗はそれを拒否します。
このため義継は、隠居していた政宗の父・輝宗に調停を依頼しました。
そして、輝宗の仲介によって、畠山義継は、領土のほとんどを没収されるという厳しい条件で政宗は降伏を認めたのでした。
その後、畠山義継は仲介の礼を述べるため、宮森城にいる父・輝宗のもとを訪れます。
そして、父・輝宗と義継の会見は無事に終了しましたが、義継が館を出ようとしたとき、義継は見送りに出ていた父・輝宗をつかみ、そのまま拉致して領土の二本松城へと逃走していったのでした。
この状況に慌てた伊達家の家臣たちは、義継を追うとともに、鷹狩りに、出ていた政宗に連絡します。
政宗の軍勢は鉄砲で武装して義継を追いかけ、阿武隈川河畔で義継一行に追いつきました。
ここで、政宗は義継に攻撃を仕掛けようとしましたが、父の姿を見て攻撃を躊躇しました。
しかし、政宗の躊躇する様子を見ていた父・輝宗から「自分とともに義継を撃て」という声を聞くと、政宗は鉄砲隊に一斉射撃を命じたのでした。
この一斉射撃の開始に、義継は逃げられないことを悟り、父・輝宗を刺し殺した上で自害したのでした。
その後、政宗は、義継勢を皆殺しにしましたが、結局、父を失ってしまったのでした。
★粟之巣の変事は史実か?
前述の内容は、敵将に誘拐された父を救うために息子が駆けつけたところ、父を人質に逃げようとする敵に対して、父を見殺しにする覚悟で仇を討つ、という戦国時代の美談です。
しかし、一方で、この事件の裏側には、政宗の謀略が隠されているのではないかと言われています。
その謀略の内容とは、政宗が仕組んだものだったというのでした。
★鉄砲隊の銃撃は本当にあったのか?
専門家の間では、政宗の鉄砲隊による銃撃の場面については、史実かどうかを疑う向きがあります。
この銃撃の場面は、伊達家の正史「伊達氏治家記録」に記述された描写なので、政宗の行為を正当化するために、事実がねじ曲げられている可能性があるのです。
元々、父・輝宗と政宗は、畠山氏の処遇を巡って対立していました。
伊達家には早めに家督を譲って親子同士の争いを未然に防ぐという伝統があり、輝宗もそれにならって早々に家督を政宗に譲っていました。
しかし、畠山氏の処遇を決める際、輝宗が政宗に口出ししたため、対立の火種が生まれたとも言われています。
この対立がもとで政宗が輝宗を疎ましく思っていたとすれば、それが父殺しの動機と考えることができます。
★粟之巣の変事の不可解な点
一方で、この事件には、不可解な点が多いと言われています。
よく言われているのが、降伏して許しを得たはずの畠山義継が、急に、態度を変えて輝宗を拉致するのはおかしいのではないかという意見です。
確かに、義継は、父・輝宗を拉致して、ずっと人質として、捉えておくつもりだったのでしょうか?
それにも、降伏の条件であった殆ど取り上げられた領地を取り戻す交渉を始めるつもりだったのでしょうか?
いずれにしても、継続的な作戦とは言えず、行き当たりバッタリのところがあり、義継の考えを読むのは難しいと思われます、
また、事件発生当時、政宗の軍勢は宮森城から数キロ離れた小浜城に本陣を置いていたが、そこから鷹狩りに出ていたとすれば、義継の一向に追いつくには相当の、スピードで追いかけなければ間に合いません。
しかも、追いついたときには、既に鉄砲をもって武装しているというのは、準備していないとできないのではないかという専門家もいます。
★粟之巣の変事は伊達政宗の陰謀だったのか?
これらの疑問を解決すべく、政宗陰謀説というものがあります。
これは、政宗が輝宗暗殺を密かに計画し、畠山家の家臣に対して「父・輝宗が、義継を暗殺する」という虚報を伝えます。
この嘘を信じた義継が輝宗を殺害するとき、「父の敵を討つ」という口実で義継を討つつもりでした。
しかし、義継が輝宗拉致という想定外の行動に出たので、政宗はやむを得なく、皆殺しにを行なったのではないかというものです。
はたして、政宗は、この事件の黒幕だったのでしょうか?
その真実の解明には、新しい史料の発見が待たれるところです。