合戦のお話

長篠の戦いは、信長は鉄砲の三段撃ちで武田家を撃破したのか?

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 長篠の戦いとは、天下を目指す織田信長が最強の騎馬隊を誇る武田勝頼と雌雄を決した戦いだと言われ、信長は「火縄銃の三段撃ち」という画期的な戦法を編み出し、武田軍を打ち破ったと言われています。

 しかし信長の生涯を編纂した「信長公記」という資料には「火縄銃の三段撃ち」については一切述べられていません。

 それでは信長は、「火縄銃の三段撃ち」を用いずに、どのようにして戦国最強と言われた武田の騎馬隊に勝つことができたのでしょうか?

 今回は、長篠の戦いについて御案内していきます。

 

★長篠の戦いの始まり

 元々、長篠の戦いは長篠城の攻防戦に起因します。

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 徳川家の領地内にあった長篠城を武田家が包囲します。

 この攻撃は、長篠城に居城する五百人の兵に対し、勝頼は1万5千人の兵で長篠城を攻め立てるものですので、勝頼は当初は直ぐに落城するものと考えていました。

 しかし、長篠城は両サイドを川で囲まれえた上に、高台に位置するため難攻不落で、兵力差は、歴然としていますが、ナカナカ落城しませんでした。

 それは、武田家が攻めてきた際にも、少ない人数で城が守れるよう、濠を大幅に改築し、外濠、中濠、内濠の三重構造の堅固な守りを施していました。

 特に、今回の武田軍の攻撃に備えて、新しく作った中濠は薬研堀と呼ばれ、深さ3メートル、角度60度のV 字型の堀であり、これを乗り超えるには相当に困難でした。

 このため、さすがの武田軍も、効果的な攻撃を行うことができず、長篠城の五百人の兵は、援軍が到着し、援護してくれるのを待ちわびていました。

 

★信長の主力軍が長篠城に進軍を開始

 長篠城が勝頼軍に囲まれて、およそ二週間後、信長は3万人の兵を率いて岐阜から長篠城に出陣を開始します。

 このとき信長は、長篠城に救援するために出陣したにもかかわらず、進軍途上の熱田城で一泊し、さらに岡崎城で二泊するなど、救援としては極めて遅いペースで進軍しました。

 これは、勝頼軍に包囲されている長篠城をよそに、傍から見て、まるで援軍する気がないように感じられました。

 そして、決戦日の三日前に、 信長は長篠城の南西5キロの設楽原で、全軍を止め、そこから一歩も動こうとしませんでした。

 

★信長は武田軍を恐れて動けないのか

 勝頼は、長篠城と対峙しながら、信長は武田家を恐れていると感じました。

 このため、勝頼は、家臣に「敵は手立てを失って一段と逼迫している。」と言って信長をバカにしていました。

 そして、勝頼は、長篠城に3千人の兵を残し、1万2千人の主力部隊を設楽原へ移動し、進軍をしない信長軍の約270メートルのところに対峙しました。

 

 一方で、信長は自信満々でした。

「信長公記」にはこの戦いについて「御身方一人も破損せず候様に御賢意を加えられる」( 信長は一人の死亡者も出さないで勝つことができると戦い前に宣言していた)と記載されています。

 

 信長のこの自信は、野戦であるにもかかわらず、合戦の台地に巨大な陣城を築いたことによるものでした。

 この状況を「三州長篠合戦記」には、信長軍の陣地の状況を表したものとして、「二重三重の乾堀、土居を築き、木を以って柵を作る。」とあり、信長は、二重三重に堀をめぐらし、土類と柵を設けていました。

 これにより、無敵と言われた武田家の騎馬隊からの攻撃に備えるというものでした。

 それは、まるで台地全体が陣地のように、城のごとく作り変えられた堅固な陣城でした。

 そして更に、信長は、火縄銃を三千丁用意して、陣城で進軍がままならない武田軍をこの火縄銃で攻撃するというものでした。

 

★長篠の戦いの始まり

 このように、巨大な陣城を築いた信長ですが、武田軍を陣城におびき出す必要があります。

 織田軍が、長篠城の南西5キロの設楽原で、急に進軍を止めたのはこのためでした。

 そして、その進軍を止めたことに、勝頼が敵は我々を恐れていると解釈したのは信長にとって好都合でした。

 

 天正3年5月21日午前6時、武田家の騎馬隊が信長軍に向かって攻撃を開始しました。

 これに対して、信長軍は、用意した三千丁の火縄銃で構成した鉄砲隊を陣城に配置し、鉄壁の守りを固めます

 このように、陣城で守りを固めた信長軍は、猛烈な武田家の攻撃を寄せ付けませんでした。

 更に、前日に大雨が降り、台地が相当にぬかるんでいたことも、騎馬隊の進軍を妨げ、信長にとって幸いしました。

 結局、攻め入る武田軍は、織田軍が作った陣城に阻まれて思うように騎馬隊が進軍できず、そこを三千丁の火縄銃を持った鉄砲隊が攻撃していきました。

 一方、勝頼は、騎馬隊の攻撃力に頼りに、波状攻撃を繰り返せば勝利できると思っていました

 このときの戦況を「信長公記」には、次のように記しています

 「かかれば退きのけば引き付け、御下知の如く、過半人数うたれ候」

 つまり、信長は囮りのように足軽隊を使って敵陣まで攻め込み、敵が反撃して前に出てくれば退却して、敵方を陣城までに引き付け、陣城からの攻撃を仕掛けるというものでした。

 

★武田勝頼の退路も断つ

 このような戦略で、戦いを有利に進めて行った信長は、武田軍の退路を断つことも考えていました

 このため、長篠城を攻撃する武田軍三千人に対して、別途編成した奇襲部隊で、背後から攻撃を仕掛けるというものでした。

 開戦の前夜、気づかれないように山中を行軍していた奇襲部隊は、決戦開始から2時間後に、長篠城の攻める武田軍3千人を撃破して勝頼の退路を断ちました。

 

 これで、設楽原で戦う勝頼は、完全に孤立しました。

 そして、午後2時、 勝頼は命からがら甲斐国に敗走します。

 「信長公記」によれば武田軍の死者は1万人余りに及ぶと記載があります。信長軍の完全な勝利でした

★信玄塚を建てる

 この戦いで大勝した信長は、武田軍が布陣した場所に、一つの塚を築きました。

  信長は、武田の戦死者を祭ったその塚を、「信玄塚」と名付けました

 

 これは、最も恐れていた武田家を打ち取ったということを、天下にアピールしたものだと思われます

 そして、この合戦から7年後、弱体化した武田家を滅亡に追いやり、天下統一の足がかりにしていきました。

★最後に

 それでは、最後に「長篠の戦い」についてまとめます。

・長篠の戦いで信長軍による火縄銃の三段撃ちはなかった。

・ただ、当時では破格の火縄銃三千丁を用意した。

・信長は長篠の戦いで、塀、濠、柵を台地に設けたて陣城を作った。

・この陣城により、信長軍は、武田軍の騎馬隊の進軍を阻んだ

・信長軍は、武田軍の進軍がままならないところに、用意していた三千丁の火縄銃で攻撃をした。

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