合戦のお話

「小田原城攻め」で、秀吉の天下統一に最後まで対抗した北条氏政の意地とその理由

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★関東の雄・北条氏

 戦国時代において、大小併せて全国に約150の戦国大名家が登場したと言われていますが、その中でも北条氏は領内統治の面で最も優れた運営を行った大名の一つだと言われています。

 その一番の理由は、北条早雲にはじまり五代に渡り100年間繁栄したことによる領国経営が安定だと思われます。

 今回は、豊臣秀吉によって「小田原城攻め」を受けて滅亡してしまった北条氏政・氏直親子について、どうして秀吉に命令に従って上洛しなかったのかという理由についてご案内していきます。

★北条氏の優れた領国経営とそれゆえのプライド

 前述のとおり、北条氏の領内統治は優れていました。

 その基本は、本城である小田原城に居住する北条氏の当主が全体を統轄し、その支城の支城主が各地域の支配を分担していたのですが、その支城主には、当主の兄弟など一族が配置されただけでなく、多くの重臣もその任にも当たっていました。

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 そして、公平性を確保するために検地をきちんとやり、田畠をつかんでおくために「北条氏所領役帳」という形で、家臣たちが負担する役を記載した基本台帳も作成し、また伝馬制度をはじめとする諸制度も整備され、戦国大名権力の到達点を示す大名ともいえました。

 また、北条氏は、関東圏を網羅したその領土の広さから、自分の支配する領域を国家と認識していたことが当時の史料にもみえ、独立国を樹立したという自負すら感じられるのでした。

★秀吉による天下統一の論理

 一方、天下統一をしたい秀吉は、自らの野望を成し遂げるため、「惣無事」の論理を掲げます。

 この「惣無事」の論理は、自分は、天皇の意を受けた関白であり、平和で戦争のない世の中を作りたい。そのためには、大名同士の争いを調停する必要があるという論法を持ち出し、もし、それに逆らうものがいれば、天皇に代わって自分が討伐するというものでした。

 そして、この「惣無事令」に違反した者ということで、天正十八年(1590年)に「小田原城攻め」が行われたのでした。

★北条氏政の秀吉に対する抵抗

 一方の北条氏は、その時の当主は五代目の北条氏直でした。

 しかし、秀吉に対抗したのは、その父で既に隠居していた北条氏政でした。

 秀吉の勢いに飲まれそうになっていた息子・氏直を押しのける形で全面的に前に出てきます。

 しかし、普通に考えれば、北条氏以外の大名が秀吉に従っている訳ですから、北条氏が勝てる訳がありません。

 では、なぜ、北条氏は最後の最後まで秀吉に抵抗したのでしょうか?どうして、そんなに強気になれたのでしょうか?

★北条氏政が秀吉に抵抗した理由は、農繁期が来れば秀吉軍は撤退すると思っていた?

 その理由として、一つ目に考えられるのが、小田原城が天下の堅城であるということだと思われます。

 小田原城は、父・氏康の時代には、上杉謙信、武田信玄というツワモノに攻められても籠城戦を貫き、撃退したことがあるのは事実です。

 しかし、上杉謙信・武田信玄の軍勢は兵農未分離の半農半士の武士が基本になっていました。

 つまり、彼ら土豪(地侍)は、農業経営も行わなければならず、このため農繁期には農業に戻る必要がありました。

 このため、上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めながら兵を引いたのは、農作業という大きな理由がありました。

 ところが、小田原城攻めの秀吉軍の二十万は、そのほとんどはすでに兵農分離が進んだ専業武士だったため、農繁期になったからといって、撤退する必要はありませんでした。

 しかし、一方の北条氏はまだ兵農未分離だったので、兵農分離の進んだ秀吉の軍勢の状況を理解していないのでした。

★北条氏政が秀吉に抵抗した理由は、北条氏としての意地とプライド

 それと北条氏政が秀吉に最後まで抵抗した理由として考えられるのは、関東圏を独立国の王としてきた北条氏の意地とプライドだと思われます。

 北条氏の当主は、自らのことを「大途」と表現していました。

 将軍のことを「大樹」というのにならい、そのつぎくらいに自分のことを位置づけていたのだと思われます。

 また、北条氏の権力をやはり自ら「公儀」と称していました。

 つまり、関東独立国は、私的な国家ではなく、公的なものと位置づけ、それなりの意地もあったのだと思われます。

 また、史料にも、北条氏のプライドを示すものが残っています。

 それは、北条氏直が秀吉の使者である富田知信・津田信勝に宛てた条書写(「武将文書集」)です。

 その中で、自分たちが秀吉から上洛を求められているにもかかわらず、上洛しない理由について、次のように述べています。

 「先年、徳川家康に上洛を求めたときは、朝日姫を嫁がせ、しかも大政所を人質として三河まで下したではないか,われわれにもそのような対応をすべきである。」

 これは、北条氏が、家康よりもランクが上の戦国大名であることを秀吉にぶつけていた証拠だと思われます。

 しかし、ご承知のとおり、家康を上洛させた時と小田原城攻めの時とでは、秀吉の立場が余りにも違います。

 家康を上洛させ、自分に頭を下げさせることは、天下統一の第一歩として必要不可欠なことでしたし、その前の小牧・長久手の戦いで秀吉と家康が直接対決したときは、兵力で不利な中、家康は押し気味で戦いを進めました。

 それに、秀吉と家康は、信長に仕えていた頃から、共に戦場で戦っているので、お互いの性格も熟知しており、秀吉は母を人質に出しても、粗末な扱いは決してしないという確信があったのだと思われます。

★北条氏政が秀吉に抵抗した理由は、結局、北条氏政が凡庸だった?

 三つ目の理由は、北条氏は関東独立国を樹立していたこともあって、中央の政治情勢にうとく、正確な状況判断と戦力分析ができていないのだと思われます。

 例えば、薩摩の島津氏にしても、世の中の状況と、自軍の戦力と秀吉方の戦力を分析した上で、分が悪いと判断して秀吉に従うという結論に至っています。

 一方、北条氏政の思考過程は、

 ・この小田原城は上杉謙信も武田信玄も撤退させた城なので、秀吉ごときに負ける訳がない

 ・家康を上洛させるのに秀吉は人質を出しているのに、北条氏に人質なしで来いというのはおかしい

という非常に短絡的な、自分の立場でしか物事を考えられていないものでしかありませんでした。

★北条氏政の「汁かけ飯」のエピソード

 北条氏政のエピソードに、子供の頃、「汁かけ飯」に注ぐお湯の量を正確に判断できず、父の北条氏康から「あの子は毎日していることも正確にできないのか。北条氏も私の代で終わりかも知れない。」と言って嘆いたというものがあります。

 この、北条氏政のエピソードは、後年になって描かれた創作だとも言われていますが、北条氏政の凡庸さを表すものでした。

★残念な北条氏の滅亡

 結局、このあと、秀吉軍二十一万とも二十二万ともいわれる大軍で天正十八年(1590年)四月三日から小田原城が包囲され、各地の支城も各個撃破され、ついに七月五日、氏直は秀吉に降伏し、小田原城は開城しました。

 そして、氏政は切腹となり、子・北条氏直は高野山に蟄居を命じられます。(のちに許されて河内・狭山藩の小大名となりました。)。

 残念なのは、氏政も内政面では先祖の善行を引き継いでいます。

 しかし、氏政は、外交面で、最後になって、張らなくてもよいヘンな意地を張って、プライドを優先してしまった結果なのだから残念で仕方がありません。

 そして、この判断によって、北条家だけにデメリットが及ぶのであれば、やむを得ませんが、当然に抱えていた家臣団の多くも路頭に迷うこととなってしまったは不幸以外の何ものでもありませんね。

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