薩英戦争というと、皆さんは日本史の授業でどのように学ばれましたか?
私は、攘夷に燃える薩摩武士が、善良なイギリス人を斬り捨てた生麦事件をきっかけにして戦争が始まり、しかしながら、薩摩藩と英国では戦力差が甚だしく、薩摩はボロボロに敗れたと習ったと思うのですが、なんかチョット違うようです。
歴史学者の中には、これは薩摩藩の勝利だという人もいるくらいです。
しかし、古より薩摩藩が最強を誇る武力集団であることはご承知のとおりであり、秀吉の朝鮮出兵のときにも、敵方から「シーマンズ」と言って無茶苦茶に恐れられていたということを考慮すると満更に嘘でもないような気もします。
今回は、薩英戦争について、御案内していきます。
目次
★生麦事件とは
生麦事件とは、英国人が生麦村において、幕末の「攘夷」思想を持つ薩摩藩武士に出くわし、斬り殺されたというイメージでしたが、これは違うようです。
これは、文久二年(1862年)四人の英国人が、川崎大師を見物しようと移動中、生麦村で薩摩藩の島津久光の行列と行き合い、英国人は馬に騎乗のまま行列の前をそのまま横切ろうとしたため、激昂した藩士が斬りかかり、一人が死亡、二人が負傷したというものでした。
ちなみに、英国人4人が大名行列を横切る前には、薩摩藩士は必至になって止めようとしましたが、英国人4人はこれを無視し、行列の前をそのまま横切ろうとしたための出来事でした。
おそらく、この頃の英国人は、アジア人を格下としてしか見ていなかったため、「日本人のお偉いさんなんて、俺たちには関係ない。」という気持ちだったのだと思います。
しかし、例えば現代社会においても、国外からの要人を招いた際などで一般公道でのテロなどを警戒する際、俺たちは外国人だから関係ないとパレード前を横切ったら、たちまち一斉取押えでしょうし、もし、それが日本でなくアメリカなら即銃殺ではないでしょうか。
つまり、生麦事件とは、薩摩藩側には全く非違はなく、英国人の非常識的な行動がもたらした無礼な事件なのでした。
なお、この生麦事件の少し前、アメリカ領事館の書記官が、同じく大名行列と出会い、下馬した上で道の端に寄ったことで、何も問題は生じませんでした。そして、この事件を聞いたとき、アメリカ領事館の書記官は英国人の傲慢な態度が原因と非難しました。
★英国からの賠償金の請求
しかし、自国民を斬りつけられた英国側は、自分達の軍事力の優越を背景に、ここぞとばかりに無理難題を言ってきます。
まずは、幕府と薩摩藩にモーレツな抗議をし、多額の賠償金の請求を行いました。
一方、この頃の幕府は、諸外国に対しては及び腰以外の何物でもなく、抗議が来れば丸く治めるということしか考えていませんでした。
このため、幕府として要求された10万ポンドを支払い、後は薩摩藩と直接交渉するように仕向けました。
しかし、薩摩藩には、謝罪する道理も、更には薩摩藩に突き付けられた2万5千ポンドの賠償金を払う気持ちも、斬り捨てを行った人物を処罰するつもりはサラサラありません。
となると、英国側は、列強得意のパターンで、日本に在住する英国公使代理のジョン・ニールが、クーパー提督率いる英国東洋艦隊7隻の派遣を要請し、砲艦外交での解決を図ってきました。
★英国東洋艦隊7隻の薩摩湾への侵入
英国東洋艦隊は、インドから日本にやって来ました。そして、ドヤもの顔で薩摩湾に侵入してきます。そして、その軍事力を背景として英国側は薩摩藩と書面の往復で予備交渉を開始しました。
しかしながら、薩摩藩側には、艦隊を見ても、予備交渉に応じるつもりは全くありませんでした。
薩摩藩の態度は、一貫していました。「我々は武門のしきたりに従ったまでのこと。」
ちなみに、この書面での予備交渉での回答書では、英国人を斬りつけた犯人の処罰について死刑を要求していましたが、薩摩側はこれを拒否するとともに、行列の前を通過した英国人の犯罪と咎めます。
この回答に、ニール公使代理とクーパー提督は、今までのアヘン戦争での清国や、インドなどのアジア諸国とはかなり異なる違和感を覚えます。
そして、予備交渉が続く中、艦隊ユリアラス号には、回答を持った使者一人のみを乗艦させるために縄梯子を下したところ、斬り込み隊40名ほどが甲板へと無理やり上がってきてしまう始末でした。
この咄嗟の事態に、艦上では銃を背負った水兵が待ち構えていたため、40名は即時に退却したものの、ニール公使代理とクーパー提督は、こんな連中と戦争を始めても碌な事にはならないと確信をするのでした。
そして、戦争を避けるため、最後には、英国側も振り上げた拳を簡単には引き下ろせないので、形を整えるために、「誰でも良いので」ハラキリをするようにとの要求に対して、それが死刑囚であっても替え玉を出さないと薩摩藩は回答したのでした。
★英国側の汽船の拿捕と戦闘開始
このため、ニール公使代理とクーパー提督のとった戦略は、湾内に碇泊していた薩摩藩の汽船三隻を拿捕し、拉致してしまうというものでした。
つまり、賠償金よりも高額な汽船を取り上げることにより、予備交渉を有利に進めようという考えでした。
しかし、薩摩藩側は、この汽船三隻の拿捕を敵対行動とみなして、ついに錦江湾沿岸に設置した89門の大砲と、11の台場・砲台から、一斉に砲撃を開始します。
そして、まずは英国東洋艦隊7隻中3番目に砲撃を備えたペルセウス号に的中し、ペルセウス号は碇を上げる時間がなかったので、碇を切り捨てて逃げ出しまし。
その状況に、更に士気が挙がる薩摩藩は、英国艦すべてに命中弾を与え、特に旗艦ユリアラスには集中砲火を浴びせ、艦長ジョスリン、副長ウィルモットらが戦死に至るのでした。
★英国側の反撃
しかし、英国側もこの危機的状況に、さすがに的確な対応をします。
英国東洋艦隊に備え付けられた大砲が最大4千メートルの射程距離を誇るのに対して、薩摩藩が所有する大砲は2千~3千メートルと飛距離が大きく異なっている上に、命中精度、破壊力も全然異なるものでした。
このため、英国東洋艦隊は、一旦、薩摩藩の射程距離の外まで出て態勢を整えます。
そして、再び、単縦陣で湾の奥へと進出を開始し、薩摩藩の砲台を一つ一つ破壊していきました。
この攻撃に、夕方には薩摩藩の砲台は全て破壊され、英国側の勝利は確定しました。
さらに、日没後、英国艦隊は、付近にあった船に火をつけ、鹿児島城周辺の民家、武家屋敷などの非戦闘地域への無差別砲撃を加えるなどの乱暴を働きました。
しかし、薩摩藩は、敵方の大砲の性能と自分達の大砲の性能と熟知しており、鹿児島城内はもとより、民家、武家屋敷もすべての人が避難しており、人的被害はありませんでした。
そして、翌日、英国艦隊は、まだ残っていた薩摩藩の砲台を攻撃し、抵抗力を排除して碇泊し、損傷を受けた艦隊に応急措置を施し、錦江湾より撤退しました。
★薩摩藩と英国艦隊の損害
薩摩藩の損害は、砲台と船舶のほとんどを失うとともに、民家、武家屋敷もかなりのダメージを受けましたが、人的被害は、5名の戦死者と13名の負傷者に止まりました。
一方の英国艦隊は、20名の戦死者と43名の負傷を出してしまいました。
そして何よりも、アジア諸国を恐怖におののかせていた虎の子の英国艦隊が、いとも簡単にとても大きなダメージを受けたことを世間に晒し、これを修理するためにインドにまで回航しなければならなくなりました。
★薩英戦争の評価
朝廷はこの薩摩藩の戦いに、攘夷を讃えて褒賞を与えたとされています。
一方、当時世界最強と謳われた英国艦隊がこれだけのダメージを受け、早々に横浜に撤退したことに西洋各国は驚きを隠せませんでした。
この戦争を報道した当時のニューヨークタイムズには、「日本を侮ってはいけない。」という文字が踊りました。
★薩英戦争の和睦交渉
そして、この戦いからの約二か月後、和睦交渉が始まりました。
このような武力衝突の後では、英国艦隊の修理代等の請求も追加対象になってくるのでしょうが、この薩摩藩に対して英国も無茶は言いませんでした。
争点は、生麦事件の賠償金2万5千ポンド支払え、英国人を斬り捨てた犯人を処罰せよ、というものでした。
しかしながら、それでも大方の予想どおり、紛糾・決裂を2回繰り返し、話はまとまりませんでした。
そして、3回目の和睦交渉に際して、江戸幕府が仲介に入ります。
賠償金2万5千ポンドは、幕府が薩摩藩に貸与するので支払うこととなりました(ちなみに、この貸与されたお金は薩摩藩から返されることなく幕府は滅びました。)
また、薩摩藩が行方不明だと言い張る英国人を斬り捨てた犯人の処罰については、薩摩藩が英国から軍艦を購入することを条件に処罰がなされませんでした。
★その後の薩摩藩と英国との関係
この戦争を通じて、英国は薩摩藩を評価するようになりました。
また、薩摩藩も、英国の文明とその軍事力の高さを認めるとともに、積極的に吸収していきました。
そして、英国の軍事力を吸収していった薩摩藩が中心となって、明治維新への扉が開かれていくのでした。