杉原千畝とは、第二次世界大戦当時のリトアニア領事官の赴任していた外交官です。
彼は、昭和十四(一九三九)年から、外交官として、リトアニアに領事代理として赴任していました。
ある日、ナチスドイツから逃げるユダヤ人の難民がリトアニア領事館に大量に訪れます。
彼らの目的は、ナチスから逃げるために、トランジェットビザ(通過ビザ)の発給を求めるためのものでした。
しかし、彼らは、身一つで逃げてきた人ばかりなので、ビザを発給するために必要な書類を一切持っていません。しかし、日本の外務省本省に確認しても必要書類のないものにビザを発給できないという回答しかありませんでした。
けれども、杉原にとって、ユダヤ人の難民のビザ発給の申し出を断ることはどうしてもできません。
このため、杉原は意を決して命令違反をします。ユダヤ人の難民に対して、通過ビザをひたすらに発給していったのでした。
その後、時代は流れて昭和六十(一九八五)年、イスエレルのエルサレムの丘に、杉原の顕彰碑が建てられます。このとき、杉原が命を救ったユダヤ人の子孫は、三万二千人余りとも言われていました。
そして、普段は当時のことを余り語らない杉原でしたが、「当然のことをしただけ」と語ったいたといいます。
今回は、この外交官・杉原千畝のお話について、御案内します。
目次
★杉原千畝は満州国への赴任
大正七(一九一八)年、杉原千畝さんは英語教師を目指して東京の早稲田大学に入学します。
そして、翌年、外交官養成のための官費留学生の試験に合格し、満州(中国東北部)に渡ってロシア語を学び、大正十三(一九二四)年、外務省書記生としてハルビンで就職しました。
さらに、その六年後の昭和六(一九三一)年には、満州事変が勃発し、翌年三月には満州国が建国されます。
このため、杉原は満州国の外交部に派遣され、ソ連との交渉などの仕事に当たることになりましたが、当時、満州国で実権を握っていた関東軍は反日運動が起こるとそれを徹底的に鎮圧していました。
この状況に杉原は、後にこう語ったといいます。
「日本人は中国人に対してひどい扱いをしている。同じ人間だと思っていない。それががまんできなかった」
昭和十(一九三五)年七月一日、杉原さんは満州国外交部を辞任します。
そして、杉原は、日本に帰国して外務省に復帰し、この年、幸子さんと出会い結婚しました。
★リトアニア領事官の訪れたユダヤ人難民
昭和十四(一九三九)年、大きな転機が訪れます。
杉原は、リトアニアに領事代理として赴任することになったのでした。
しかし、赴任した三日後の九月一日、ドイツ軍がポーランドに侵攻、第二次世界大戦が始まってしまいます。
さらに、九月十七日にはソ連もポーランドに侵入。昭和十五(一九四〇)年には、ソ連軍がリトアニアに武力進駐し、七月にはリトアニアはソ連に事実上占領されてしまったのでした。
そして七月十三日、杉原のもとにソ連から、八月二十五日までに領事館を閉鎖し、明け渡せという命令が届きます。
その五日後の七月十八日朝、杉原さんは領事館の周りに百人ほどの人だかりが集まっているのに気が付きました。
「咄嗟に私は、これはただごとではない。何か知らぬが、兎に角当領事館に用件があって来集したものに違いないと直感した」(杉原の手記より)
集まってきたのは、ドイツに占領されたポーランドから逃れてきたユダヤ人難民でした。
★杉原千畝はユダヤ人難民にビザ発給をするかで苦悩する
この頃、ヨーロッパの各地でナチスドイツによるユダヤ人の大虐殺が始まろうとしていました。
領事館の訪れたユダヤ人難民は、そんなナチスの迫害から逃れようとポーランドを脱出してきた人達でした。
彼らは、日本を通過し他国へ脱出したい、そのためにトランジットビザ(通過ヒザ)の発給を求めていたのでした。
当時の日本は、人種平等を掲げていたものの、外務省は「必要な書類を持っていない者に対しては通過ビザを発行しない」という方針を示していました。
しかし、杉原の前に集まったユダヤ人難民の大部分は、着の身着のままでポーランドを脱出したため、ビザを受けるために必要な書類や旅費を一切持っていません。
杉原は、日本の外務省に、「ユダヤ人たちの申し出は、人道上どうしても拒否できない。形式にこだわらず、領事が適当と認めるものがあれば発給してもよいのではないか。」と電報を打ちます。
しかし日本の外務省からの回答は、「大集団の入国は、公安上、旅客安全上からも、トランジットビザといえども発給してはならない。」というものでした。
一方で、リトアニア領事館の前のユダヤ人たちの数は日増しに増えていきます。
このため、杉原の一家は、毎日窓の外のユダヤ人たちを見守ることしかできませんでした。
七月二十九日の朝、杉原は妻・幸子さんの傍らに立ちました。妻・幸子さんは、夫が幾日も眠れない夜を過ごしたことを知っていました。
杉原は妻・幸子さんに尋ねました。
「ビザを出そうと思うけど、どう考える。私たちもただではすまない。連れて行かれるかもしれない。みんな捕まるかもしれない。」
幸子さんは答えました。
「私たちはどうなるか分かりませんけれど、そうしてあげてください。」
杉原は、手記に次のように記しています。
「ユダヤ民族から永遠の恨みを買ってまで、旅行書類の不備とか公安上の支障云々を口実に、ビザを拒否してもかまわないとでもいうのか。それが果たして国益に叶うことだというのか。苦慮のあげく、私はついに結論を得ました。」
★杉原千畝は手が動かなくなるまでビザを発給する
その後、杉原は、食事もろくにとらず、朝から夕方遅く、手が動かなくなるまでビザを書き続けました。
七月二十九日に発給したビザは百二十一枚。
杉原は、以後一日平均およそ七十枚のビザを一か月近くにわたって発給し続けました。
そして、九月五日、ついに杉原一家がリトアニアを去る日がきました。
杉原一家は、ベルリンヘ向かう列車に乗り込みました。
それでも、ユダヤ人難民は、駅のホームに群がってビザを求め続けました。
そして、杉原は、一枚一枚ビザを発給し続けました。
そしてついに、出発の時間になりました。
最後の杉原は言います。「許してください。もうこれ以上書けない」
杉原が発給したビザの数は二千百三十九枚。ビザによって命を救われた人はおよそ六千人と言われています。
★杉原千畝の顕彰碑がエルサレムの丘に建てられる
その後、第二次世界大戦中、杉原はドイツのケーニヒスブルグやルーマニアのブカレストの領事館の駐在に赴任します。
そして、終戦後の昭和二十二(一九四七)年四月、杉原一家は日本に帰国しました。
この時、杉原は四十七歳になっていました。
ある日、杉原は外務省の呼び出しを受けます。それは、外務省退職の勧告でした。
杉原はその後、貿易会社に勤めたり、翻訳や語学指導に携わるなど職を転々としましたが、ユダヤ人へのビザ発給については、あえて語ろうとはしなかったそうです。
その後、昭和四十三(一九六八)年八月、杉原のもとにイスラエル大使館から電話がかかってきました。
大使館で待っていたのは、杉原が二十八年前にビザを発給したユダヤ人の一人でした。
彼らは、外務省を退職して消息が分からなくなった杉原の行方をずっと探し続けていたのでした。
そして、昭和六十(一九八五)年十一月、イスラエルのエルサレムの丘に杉原の顕彰碑が建てられました。
この時、杉原は、病気のため、もはやイスラエルに赴くことはできなくなっていました。
このため、代って出席した烏子の信生さんから病床の杉原に手紙が届きました。
手紙にはこう綴られていました。 「握手をする手も休めないほどで、皆、本当に心から感謝している目をみると、僕はこんなに立派な両親をもつて幸せだとあらためて思いました」
その時、杉原の目は熱く涙ぐんでいたと、妻・幸子さんは書き残しています。
★杉原千畝の名言「大したことではない。当然のことをしただけ。」
その半年後の昭和六十一(一九八六)年七月、杉原は息を引き取りました。
八十六年の生涯でした。
その後、平成十二(二〇〇〇)年十月十日、杉原の偉業を称え、記念のブレートを設置する式典が外務省の外交資料館で行われました。
「勇気ある人道的行為を行った外交官・杉原千畝」とブレートには刻まれています。
そして、その二か月後、大阪で、杉原千畝生誕百年式典が開かれました。
この式典には、多くのユダヤ人が列席しました。かつて杉原が命を救ったユダヤ人の子孫は、現在、全世界で三万二千人あまりに及ぶといわれています。
この時にビザの発給を受けたものは語ります。「生きるか死ぬかの問題だった。彼は救世主だった。」
最後に、普段はあまりユダヤ人難民へのビザ発給に関して語らない杉原が、晩年、次のように語っています。
「私のしたことは外交官としては間違ったことだったかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった。大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです。」
きっと彼にとっては、偉業だと言われるのが照れ臭かったのかもしれませんね。