歴史上の人物

前田利常はバカ殿ではなかった

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 江戸時代の初期、バカ殿と呼ばれる大名がいました。

 彼の名前は前田利常。れっきとした加賀120万石の大大名です。

 口を半開きにして、服装を崩し、チョット変な人だという印象を与えていました。

 しかし、それは、こんなバカ者ですので、幕府への謀反の意図はありませんということを内外に示すためのものでした。

 それでは、今回はこの前田利常のお話をさせて頂きます。

★病床に伏した家康から言われたこと

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 大坂夏の陣の翌年である元和2年(1616年)4月、家康が病床に伏しました。

 このため、利常は家康のお見舞いにきました。

 すると、死期を察した家康が利常に対して次のように言いました。

 「お前を殺すように、何度も将軍(秀忠)に言ったのだが同意せず、それどころか何の手も打たなかった。だからといって幕府には恩義を感じなくてもよいが、将軍(秀忠)の厚恩を肝に銘じよ」(『懐恵夜話』)

  天下人・家康からこのように言われ、利常は無茶苦茶に動揺しました。

★徳川家康が利常を警戒する理由

 家康は、利常をかなり警戒していました。

 その理由は、父・利家に似ており、体が大きく武勇に優れていました。

 また、政治面でも治水や農政事業(十村制、改作法)などを行い、「政治は一加賀、二土佐」と讃えられるほどの盤石の態勢を築くなど、名君ぶりを発揮していました。

 このため、家康にしてみれば、利常は、将来の徳川家を脅かしかねない存在でした。

★江戸時代初期の幕府からの因縁

 江戸時代初期、徳川家は幕府の安定政権を保つため、高い石高を持つ外様大名の謀反を恐れていました。

 特に、福島正則や加藤忠広などの豊臣恩顧の大名たちは、幕府から些細なことで因縁をつけられ、減封、改易が言い渡されていました。

 そして、その中でも最大の石高を誇る前田家に因縁をつけようと、幕府が画策していました。

 利常は、これを何とか切り抜けて対応していきました。

 そして、前田家からも、幕府に謀反の意図がないことを必死にアピールしていきました。

 例えば、3代目将軍家光が就任した際には利常は改名もしました。

 従来は、利光と名乗っていたところ、同じ「光」の文字を末文字とするのはおこがましいと、利常としたのでした。(ここでの案内は全て『利常』で統一しています。)

★最後にはバカのふりまでする

 体格がよく、声の大きい利常は、どうしても目立ちました。

 さらに、加賀百万石という背景が、彼をより立派に見せてしまいます。

 そして、初代藩主・前田利家は、秀吉と無二の仲だったことは、知らない人はいないくらいです。

 このため、利常は、自分はバカだから謀反はできないという意図で、バカ殿のふりをしました。

 その内容は次のようなものです。

 

 1 鼻毛を伸ばす

  まずは、鼻毛を伸ばして、だらしなさを演出しました。

 2 口を半開きにして服装を崩す

  これも同様に、バカ殿を演じるため、チョット抜けている感を出しました。

 3 露出する

  病で江戸城出仕をしばらく休んだ後、幕臣・酒井忠勝に「気ままなことで」と皮肉を言われたので、「ここが痛くって」と性器を見せて弁解しました。

 

★最後に

 このような変な行動や奇行が、幕府側に本当に「謀反の意図なし」と理解してくれるのかが分かりません。

 しかし、昔は名君であった人が、急に言動が変になると、周囲からは、この人終わったな感があるのだと思われます。

 また、敵を欺くにはまず味方からということで、家臣も相当に戸惑ったようです。

 この結果、前田家は、幕府から減封、改易を言い渡されることはありませんでした。

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