徳川家康は、築山殿(当時は瀬名姫と呼ばれていた)と、家康が16歳のとき、すなわち今川家での人質時代に結婚をしました。
しかし、この築山殿は性格がかなり激しく、様々な逸話が残っています。
そして、最後には、織田信長から武田家との内通の嫌疑をかけられて、家康の家臣に没されてしまうという悲劇を向かえてしまいます。
彼女は、名家今川氏から弱小国三河の家康に嫁ぐのですが、その嫁いだ御家の事情と夫・家康のことを考慮せず、家康の盟友・織田信長に対して今川家を滅ぼした男として、憎みつづけたことによって起きた悲劇でした。
今回は、この築山殿について御案内します。
目次
★築山殿と徳川家康の結婚
家康は、駿府で今川家の人質として生活していた十五歳のときに、今川義元の加冠である関口義広の世話により元服します。
そして、16歳で築山殿と結婚しました。
彼女は、家康が元服したときに世話になった関口義広の娘でしたが、母は義元の妹でしたので、今川義元の姪に当りました。
今川氏が、人質の家康と築山殿とを結婚させたのは、家康を今川氏の有力な同盟者として、重くみていた証拠でもありました。
築山殿は、容姿は美しく、聡明でしたが、勝気な性格でした。
家康が人質ということもあって、妻上位の夫妻でしたが、家康にとり、築山殿との結婚は、何かと今川家に軽く見られてきた立場を跳ね返す重い意味がありました。
そして、結婚2年後には嫡子・信康、その翌年には長女・亀姫が産まれました。
★築山殿の運命が変わった桶狭間の戦い
家康と築山殿の間に、長女・亀姫か産まれた年に、桶狭間の戦いで今川義元が戦死します。
家康は、この機会に戦線を離脱して、岡崎城に駆け込みました。
岡崎城では、今川家の城兵は狼狽して逃げ出したあとで、家康は労せずして先祖伝来の城に入ることができました。
家康の家臣たちは、今川家の支配の下で、刀をもつ手を鍬に代えて、田を耕し、若殿の帰りを待っていました。
しかし、このときから、駿府の築山殿と二人の子どもは、形の上で今川氏の人質となってしまいました。
けれども、家康は暗愚な今川義元の子・氏真に見限りをつけて、信長とよしみを通じました。
そして、ここからが、岡崎と駿府に分かれた家康と築山殿の夫妻の対立が始まるのでした。
★家康が妻子奪還に成功
家康は、長く待ちわびてくれた家臣や御家の今後を考えて、信長とよしみを通じましたが、一方で自分の大切な妻子は今川家に取られたままとなってしまっています。
こんなとき、家康は、今川氏重臣の二人の子を戦いで捕らえることに成功します。
そして、自分の妻子と、今川家重臣の二人の子供との人質交換によって、家康夫妻は一年九か月ぶりに再会することができました。
★家康の信長と家臣団への気遣い
家康は、今川家から妻子奪還に成功しますが、この時は既に信長と同盟を結んでおり、また、今川家の支配に、長く耐え忍んできた旧来の家臣団に気遣って、何かと公家風の文化を好み、名家今川氏を誇る築山殿を岡崎城には住まわせませんでした。
このため、彼女は城の東にあった築山といわれた小さな山に建築した室町風の御殿で暮らしました。
それまで、瀬名姫と呼ばれていた彼女が、築山殿とされるのはこれに由来しています。
★家康と築山殿とのすれ違い
築山殿は、暮らし始めた室町風の御殿は気に入りますが、どうして家康が信長と同盟を結ぶのかを理解できませんでした。
反対に、築山殿は、家康が自分をあれだけ可愛いがってくれた伯父・義元の仇をなぜ討ってはくれないのかという不満で一杯になるのでした。
そして更に、築山殿の愛する息子・信康と信長の娘・徳姫とが婚姻したことで怒りが爆発させます。
このように、築山殿は、早く大名として一人前になりたいと必死になる夫・家康の気持ちを全く理解しませんでした。
★築山殿VS徳姫
家康・築山殿の長男・信康と、信長の長女・徳姫とは、結婚したのは9歳同士でしたので、信長の娘・徳姫に対して、最初はやさしさもみせた築山殿でしたが、お互いの気性の強さから、徳姫の成長につれ、嫁姑の争いは激化していきました。
そして、落日の今川家を背にした築山殿と、日の出の勢いの織田家の威光を笠に着る徳姫の女の争いに発展していきました。
この嫁姑の争いに、家康は手を焼くようになるのでした。
★築山殿のヒステリックな行動
築山殿が、築山の御殿に移り住んで8年目、家康は居城を浜松城に移し、岡崎城は嫡男・信康に譲りました。
これは、家康が領地を遠江にまで広げて、今後更に駿府へ領地を拡大していくために必要なことでした。
このため、家康としては、築山殿は岡崎城に近い築山の御殿に置き去りになっており、たまには浜松城に呼び寄せることもありました。
しかし、浜松城での築山殿の行動は、かなりヒステリックな行動が伝えられています。
築山殿の侍女に、家康との連絡係をしていた池鯉鮒神社の宮司の娘とされるお万という女性がいました。お万は
家康が浜松城へ行く際に、気に入って連れていきました。
そして、家康は、この女性に手を出しお万は身ごもりました。
これを知った築山殿は逆上します。
築山殿は、なんとお万を素っ裸にして縛り上げ、真冬の深夜に木が繁る城内に捨てさせました。
この折艦によって、お万のお腹の双児のうち一人は死んでしまいました。
ちなみに、助かったもう一人が、のちに太閤秀吉の養子になった結城秀康でした。
また、岡崎の地にあっても、築山殿のヒステリックな怒りは徳姫にも向けられます。
徳姫は二人の子を産みましたが、いずれもが女の子でした。
このため、嫡子を産めない女性に正室の資格はないと露骨に罵ります。
そして、なんと信長と家康が敵としていた武田家の家臣の娘を信康の側室にしてしまったのでした。
このように、築山殿は、自身のヒステリーを息子と嫁の仲を裂くことで解消するというタチの悪い母親になってしまいました。
★築山殿に苦悩する徳川信康
このような、築山殿と徳姫の嫁姑問題に苦しんだのは、岡崎にいる信康でした。
彼は17歳のとき、武田勝頼との戦いで、家康の危地を救うために殿をつとめるなど、行く末たのもしい若殿で、家康は信康の将来性を高く評価していたのですが、反面で家臣に対する思いやりに欠け、粗暴な一面をもっていました。
このため、信康の徳姫に対する愛情表現に不十分なところもあり、徳姫の築山殿に対する憎しみは、夫・信康への怒りへと転化していったのでした。
そして、この夫への怒りは、女性特有の身震いするほどの嫌悪感になっていきます。
そして、天正七年(1579年)、そのとき徳姫は、まだ21歳なので、その怒りと嫌悪感だけで、あと先を考慮せずに、父・信長に夫・信康と姑・築山殿を断罪する十二カ条からなる手紙を送りました。
その内容は、
「夫・信康は罪もない町の女や僧を殺し、武田の家人の娘に溺れ、酒にふけっている」
「築山殿は明国から来た医者を寝所に近づけて不義をおこない、彼を通じて武田勝頼に内応し、信長と家康を滅ぼそうとしている。信康は徳川の領土をつぎ、築山殿は武田家の重臣に再嫁することを勝頼も承諾した」などと糾弾した内容でした。
ちなみに、この内容は、どこまでが真実でどこまでが作り話しなのかは分かりません。
★徳姫の手紙の結果の悲劇
一方、この12カ条の手紙を、安土城で受け取った信長は、手紙の内容を信じて、家康に対し信康の処分を命じました。
家康にしては、嫡男・信康は自分の息子だから可愛いという以上に、将来性を高く評価していただけに、信康の処分は身を切られる以上のことでした。
しかし、今の徳川家では戦国時代を生きていくため、信長という盾がどうしても必要でした。
さらに、8歳年上の信長の残忍な性格も十分知っています。つまり嫡男・信康を処分しなければ、徳川家が危うくなり、再び家臣団に百姓仕事をさせざるを得なくなります。
家康は、苦しみながら信康と築山殿の処分を決心しました。
★家康の余りにも大きな犠牲
家康は先に信康を処分すると、仮に築山殿の耳に入ると、どのようなヒステリーを起こすかが分からないので、築山殿から処分しました。
築山殿を浜松城に呼び寄せるため、なんの疑いもなく輿に乗っているところを、すだれの中を白刀が突き込まれました。
★築山殿の処分に動揺する家康
家康は、散々に築山殿には苦しめられ、最後には彼女のヒステリーが原因で嫡男・信康まで処分せざるを得なくなるのですが、それでも彼女は22年家康の妻であったことは紛れも無い事実でした。
そして、浜松城に運ばれた変わり果てた妻をみて、家康は激しく動揺します。
更には、「女の事なれば計らい方もあったろうに、心幼くも討ち取ったか」と、家康はみずからの命令を忠実に実行した家臣を責めるなど、家康にしては珍しく不条理なことを言いました。
★嫡男・信康の処分
そして、築山殿の処分から半月後の九月、二俣城(静岡県浜松市)で嫡男・信康が処分されました。弱冠21歳でした。
この嫡男・信康の処分は、弱小国三河の当主である家康が、戦国時代の中で、徳川家という御家を、そして家臣団を守っていくためには仕方のないことでしたが、余りにも大きな犠牲でした。
★この苦い体験を乗り越えての家康
この事件のあと、しばらくの間、家康は正室は持たず、その後に太閤秀吉の命令で、仕方なく秀吉の妹・旭姫を正室に迎えますが、彼女が死ぬと、再び正室を持つことはありませんでした。
また、戦場で窮地に立ったとき、更には周囲が自分の思いどおりの働きが出来なかったとき、家康の胸をよぎるのは信康のことでした。
「信康が生きていてくれたら・・・…」
その思いは、天下人となった晩年の大阪夏の陣、冬の陣でも続くのでした。
そして、築山殿との結婚の失敗は、後日に多くの側室を持った際、彼女たちを、単なる肉体の奉仕者、子どもを産ませるための"道具"とみるのではなく、その心理をつかみ、人格を尊重しました。
また、側室たちの適性に応じて、政治の方面や、金庫番など、彼女たちを上手に使うという形で生かされました。
このような、女性たちの中から不満が生じないよう配慮する家康の心遣いは、築山殿との苦い体験をもとに、つちかわれたものだと思われます。