山本五十六は、太平洋戦争の時の連合艦隊司令長官です。
彼を有名にしているのは、その残している言葉です。
「やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、 ほめてやらねば人は動かじ。」
「苦しいこともあるだろう、言いたいこともあるだろう、不満なこともあるだろう、腹の立つこともあるだろう、泣きたいこともあるだろう、これらをじっとこらえてゆくのが男の修行である。」
現代でも良く聞かれる言葉ですね。企業の管理職であれば、身に染みるような言葉だと思われます。
一方、太平洋戦争時代の連合艦隊司令長官と聞くと、傍若無人に戦争に突き進んでいくというイメージさえも持ってしまいますが、実は、彼は若き日にアメリカに留学していたので、その国力を認識しており、最後までアメリカとの戦争を強く反対していました。
そして、彼は、必死になってアメリカとの関係について、外交交渉を持って修復するよう働きかけます。
しかし、なかなかアメリカとの外交交渉が進みません。このため、山本は立場上、太平洋戦争の臨戦態勢の準備に入っていきます。
そして、最後の真珠湾攻撃の打ち合わせの中、山本は出撃を控えた幹部たちに、「最終の外交交渉が上手く行けば、すぐに戻ってくるように。」と指示します。
この山本の言葉に、出撃を控えた幹部は反発します。すると山本はめずらしく声を荒げて、「この命令を聞けない奴は辞表を出せ。」と凄むのでした。
今回は、山本五十六のお話をさせていただきます。
目次
★山本五十六は太平洋戦争を一貫して反対していた
昭和十六(一九四一)年十一月二十六日、三十隻の艦隊が密かに日本を出航しました。
その任務は、アメリ力の軍事拠点・ハワイ真珠湾を撃破することでした。
そして、この作戦を立案し、指揮をとったのが、連合艦隊司令長官・山本五十六です。
山本は、若い頃、駐米武官として、ハーバード大学に留学した経験を持っており、アメリカのその巨大な国力を知っており、一貫して太平洋戦争に反対していました。
しかし運命のいたずらは、山本にその時の連合艦隊司令長官の職を与え、その戦争を指揮することとなります。
山本は考えます。あの巨大なアメリカから日本を守るにはどう戦えばいいのか、その内容は、東京・防衛研究所に、山本の真珠湾攻撃の作戦をまとめた機密文書「戦備二関スル意見」に残されています。
この機密文書は、昭和十六年一月七日、対米戦争の準備が進む中、まとめられた作戦書です。
その「作戦方針」は、「敵主力の大部隊 真珠港に在泊せる場合には 飛行機隊を以て之を徹底的に撃破す」というものでした。
しかし、海軍首脳部は、前代未聞のこの作戦を受け入れようとしませんでした。
けれども、山本は、この作戦しか日本が生き残る術はないと考えていました。
★山本五十六は総理大臣・近衛文麿にも戦争回避を伝える
その一方で、山本は、昭和十六年四月十六日にワシントンで始められた、駐米大使の野村吉三郎と米国務長官コーデル・ハルの外交交渉に、最後の期待を寄せていました。
海軍出身の野村は、国際協調派として、山本と考えを共にしてきた間柄でした。
山本は、野村に戦争回避の望みを託していたのでした。
ところが三か月後、最悪のタイミングで、日本陸軍が南部仏印にも進駐を開始し始めます。
アメリカが警戒している日本の南方への進軍を、更に拡大してしまったのでした。
このため、八月一日、ルーズベルト大統領は石油の対日輸出禁止を正式に決定してしまいます。
いわゆるABCD包囲網です。
日本は、石油の七割をアメリカからの輸入に頼っていたため、窮地に追い込まれてしまいました。
その後、九月に、山本は総理大臣の近衛文麿から私邸に呼ばれ、日米戦の勝算について尋ねられました。
その時の山本の答えは、次のとおりでした。
「初めの半年や一年は暴れてご覧に入れます。しかし、二年、三年となっては全く確信は持てません。日米戦争回避に極力御努力を願います。」
そして、相変わらず、山本の作戦を承認しようとしない海軍軍令部に対し、「作戦が認められなければ日米戦をやり通す見込みはない。そうなれば自分と連合艦隊全幕僚は辞職する覚悟でいる。」と迫って、その作戦を了承させたのでした。
こうして、作戦立案から九か月、山本の作戦は現実的な段階へと進み始めました。
★戦争開始か、それとも交渉成立か、ギリギリまで交渉が続く
その後、昭和十六年十月に、東条英機内閣が成立します。
そして、戦争開始の是非が議論されますが結論は出ず、「戦争準備と外交交渉とを並行して進める」ことになります。
ただし、日本国内では、外交交渉は十二月一日までと期限が定められました。
もし、それまでに和解できなければ戦争を決行し、その開戦の日は十二月八日と決定されていたのでした。
このため、海軍は開戦に向けて準備を開始します。
真珠湾攻撃に参加する艦船三十隻が各地から集められました。
その中心は、「赤城」「加賀」など六隻の航空母艦でした。
つまり、山本は世界で初めての航空艦隊を編制したのでした。
一方、交渉期限が十二月一日と定められたことを受け、アメリ力の日本大使館は、十一月二十日、これ以上アジアヘ進出するのを止め、南部仏印から軍を撤退するという和解案を持ってアメリカに提出したのでした。
日本政府は、従来に比べて、これだけ大幅に譲歩しているので、アメリ力の態度を軟化させることができると期待していました。
またこの頃、真珠湾攻撃に向けた作戦の最終打ち合わせが行われました。
山本は一堂に会した連合艦隊の幹部にこう告げます。
「ワシントンで行われている対米交渉が妥結したならばハワイ出動部隊はただちに反転して帰投せよ。」
この命令に対して、南雲忠一中将など何人かの指揮官が反論します。
「それは無理な注文です。出しかけた小便は止められません。」
すると、この反論を聞いた山本は、珍しく声を荒げました。
「もしこの命令を受けて帰れないと思う指揮官があるなら即刻辞表を出せ。百年兵を養うは、ただ平和を護るためである。」
山本はこの時点でも。まだ戦争回避の可能性をあきらめてはいなかったのでした。
★真珠湾攻撃の開始で太平洋戦争が始まる
しかし、十一月二十六日、山本の願いは打ち砕かれます。
日本が出した和解案に対し、アメリカは、日本の三国同盟からの脱退と、仏印及び中国大陸からのすべての日本軍の撤退を要求してきたのでした。
この要求は、アメリカが、日本に対して、明治以来、築き上げてきた権益のほとんどを放棄せよということと同じでした。
これでは、日本政府にはとても受け入れられるものではありません。つまり、アメリカは日本に宣戦布告しているのと同じでした。
このため、同日、日本艦隊はハワイ・真珠湾へ向け出港します。この艦隊を率いるのは南雲忠一中将でした。
山本は、前線で指揮することを強く希望したものの、日本で役目を務めるように命じられ、呉に停泊する戦艦・長門に置かれた司令部で指揮をとることになりました。
そして、十二月一日が、日米交渉の最終期日でした。
この日の午後二時、宮中で御前会議が開かれました。東条首相は、「事ここに至りましては、米英蘭に対し開戦のやむなきに立ち至りましたる次第であります」と述べます。
ここに、アメリカとの開戦が正式に決定されたのでした。
しかし、まだ、この時点でも、ワシントンの日本大使館は、戦争回避に向けて奔走しています。これが最後の外交交渉でした。
けれども、その奔走も空振りに終わります。そして、翌日十二月二日午後五時、ついに呉の司令部から全部隊に「二イタカヤマノボレ1208」という電信が打たれます。
この電信は、真珠湾攻撃のたった六日前に「十二月八日に作戦を実行せよ。」と正式決定を全部隊伝えるものでした。
★真珠湾攻撃が開始させる
そして、十二月八日、航空艦隊はハワイ北方の攻撃発進地点に到着しました。
攻撃開始予定時刻は、午前八時でした。
六隻の空母ではパイロットたちが機内で発進命令を待っていました。そこに一つの指示が出されます。
午前八時よりも前に爆弾を落とじたり機銃を撃ったりしてはいけない。
これは、山本が国際法上、日本の正当性を守るため、攻撃前にアメリ力に事前通告を行うよう日本政府に約束させていたからでした。
そして、その刻限である七時三十分より前には絶対に攻撃しないようにと全軍に厳命したというものでした。
午前六時、八時の攻撃予定時刻に合わせ、百八十三機の攻撃隊が一斉に発進、真珠湾へ機首を向けました。
七時三十分、先行していた偵察機は真珠湾の状況をつぶさに確認し、攻撃隊に向け、「敵艦隊真珠湾ニ在リ」と打電します。
昭和十六年十二月八日、現地時間七日午前七時五十五分、真珠湾の真上に到達した攻撃隊は一斉に降下していきました。
真珠湾のアメリカ軍は、空から突然襲ってきた日本軍に、なすすべがありません。八隻の戦艦をはじめとした計十八隻の軍艦が撃沈もしくは大破、二百機以上の航空機が損壊山作戦は、わずか二時間でアメリ力太平洋艦隊に、壊滅的な打撃を与えたのでした。
そして、午前十一時、ハワイ洋上では攻撃を終えた航空機が次々と空母に帰還します。
実はこの時、アメリカの二隻の空母はハワイ近海に出かけていました。
ふたたび出撃し、攻撃し残した施設や空母を攻撃するべきか否か。現地指揮官の南雲には、軍令部から日本の航空艦隊を、無傷で連れ帰ることが重く課されていました。
このため南雲は命じます。「航空機を格納庫に収容せよ。日本へ帰投する。」
この瞬間、真珠湾攻撃は終わりました。しかし、山本は思いがけない知らせ聞き、愕然とします。
それは、アメリカへの事前通告が攻撃開始の五十五分も後だったというものでした。
山本が最も心配したことが起きていたのでした。
★アメリカ逆襲による山本五十六の戦死
そして、アメリカ世論は高まりを見せます。「日本はだまし討ちをした。」そして、一気に対日戦支持に傾き、やがてアメリカの逆襲が始まります。
昭和十七年(一九四二)六月、ミッドウェー海戦で敗北、同年八月、ソロモン海戦敗北、翌年二月、ガダルカナル島でも撤退を余儀なくされます。
山本は、戦況が悪化するにつれ、求めて最前線に出て指揮をとるようになりました。
そして、昭和十八年(一九四三)四月十八日、山本は周囲の猛反対を押し切って、ラバウル基地から敵が多い危険地域に飛び立ちました。
しかしアメリカ軍に待ち伏せされ、山本の搭乗機は、十六機の戦闘機の猛攻を受け密林に撃墜されてしました。
享年六十。死の七か月前、密かにしたためていた手記にはこう記されていました。
「ああ我何の面目かありて見えむ大君に、将又逝きし戦友の父兄に告げむ言葉なし。いざまてしばし若人ら死出の名残の一戦を華々しくも戦ひてやがて後追ぬねれなるぞ」
そして、真珠湾攻撃から三年八か月後、日本国内は焦土と化し、日本は降伏しました。
★現代人が山本五十六から学ぶものは語録だけでなく行動も
最後になりますが、山本は、アメリカとの戦争には一貫して反対していました。
そして、その反対への思いは、命を懸けて戦いに挑もうという部下に、もし外交がうまくいったら攻撃せずに帰ってこい、というある意味で、無茶苦茶なものでした。
しかし、山本の目的は、ただ一つ、日本をいかにアメリカから守るか、ということでした。
このため、反対していた太平洋戦争、ガチンコで2、3年戦えば、その国力の違いから結果は見えています。
しかし、開戦が決まったからには、山本は、積極的に危険地帯に出撃し、全力を挙げて戦争に取り組みました。
彼の語録からも学ぶものは多いですが、その信念、行動からも、我々は沢山のことを学べそうですね。