年末になるとテレビで放送されている忠臣蔵ですが、日本人にはこのような「主君に忠節を誓う武士」の姿が人気のようです。
ところが、反対にこれが海外の人の感覚であれば、残された家臣の新しい勤め先を探す方がいいのではないか、自分は切腹になるのが分かっているのに、どうして主君の仇を取るのだ、と言われそうですね。
しかし、この忠臣蔵も色々と疑問点が取り上げられています。
その中でも、最も大きな疑問点は、幕府は討ち入り計画を知らなかったのか、未然防止できなかったのか、という点です。
今回は、この内容について、御案内します。
目次
★「忠臣蔵」の通説
元禄十四年(1701年)三月、播磨国(現兵庫県)赤穂藩の藩主・浅野内匠頭長矩が、江戸城内で吉良上野介に斬りかかり傷を負わせてしまいました。
この原因は、吉良が浅野内匠頭に対して嫌がらせをしたことが原因だと言われています。
浅野内匠頭は、江戸城内で刀を抜いて斬りかかったとして切腹となり、更に浅野家は領地没収、お家断絶の改易処分が下されました。
しかしながら一方で、嫌がらせをして原因を作った吉良幸助之介は、お咎めなしでした。
その後、赤穂藩の家老・大石内蔵助は、浅野家の再興を働きかけましたが叶いません。
そこで、大石内蔵助は、浪人となった浅野家の家臣とともに主君の仇討ちを計画して、元禄十五年(1702年)12月14日未明に赤穂藩の浪士47名で江戸本所の吉良邸を襲撃し、見事に仇討ちを成功させました。
この後、47名の士は、切腹となります。そして、喧嘩両成敗で、吉良家も上野介の養子・義周が信濃諏訪藩へのお預け処分となりました。
★本当に幕府は討ち入り計画を知らなかったの?
前述のとおり、赤穂浪士による仇討ちは成功し、彼らは江戸の町で英雄扱いされます。
これは、将軍・綱吉の独断で、「浅野家はお家取り潰し」、「吉良家はお咎めなし」という判断がなされたものの、喧嘩両成敗の観点から余りにも不公平感があったからでした。
ましてや、吉良家は、室町幕府の足利将軍の流れをくむ名家で、幕府の儀式・祭典関係の作法等に精通していることをいいことに、関係する諸大名に嫌みを言ったり、またワイロ的なものを受領しているという噂まであったことから、世間の風潮は浅野家が可哀想という流れがありました。
そして、浅野家はお家断絶で家臣団は路頭に迷っているところでした。このため、世間の噂では、主君の仇討ちが行われるのではないかといわれており、実際に行われたとしても何ら不思議なことではありませんでした。
さらに、江戸幕府は全国的に情報ネットワークを張り巡らせており、徹底した相互監視制度を設けていました。
このため、赤穂浪士は、討ち入りまでの約1年9か月間、仇討ちを成功させるために、吉良邸に関する情報を集め、仲間を集めて秘密裏に準備を重ねていきましたが、この準備活動が幕府の情報ネットワークに引っかからない方が不思議でした。
さらに、幕府の情報ネットワークにかかったにもかかわらず、その情報を重要視しなかったとも取れるフシもあります。
その内容は、赤穂浪士の中には、仇討ちの盟約を結んだにもかかわらず、途中で脱落した人物もかなりいました。
高田郡兵衛も脱落者の一人でしたが、彼は幕府関係者である叔父に計画を知られてしまいました。
このため、このような動きがあるということを幕府側がキャッチしていたにもかかわらず、これに対して幕府が動いた記録はまったく見つかっていないのでした。
★どうして吉良邸は江戸の端に屋敷替えになったの?
また、幕府は吉良邸の屋敷替えも命じていますが、これも不自然です。
吉良邸は、当時、呉服橋という中心地域にありましたが、新たな場所は、現在のJR総武線両国駅の近くという当時としては都心から離れた場所へと移動になりました。
吉良上野介は、高家という幕府の儀式などを取り仕切る役職であるにもかかわらず、この屋敷替えには幕府が吉良邸を孤立させる意図が働いていたとも推測できるのでした。
そして、更に更に、屋敷替えで新しく吉良邸の隣に住むことになった蜂須賀飛騨守が、念のため幕府の老中に対して、赤穂浪士が仇討ちに来たらどうすればいいのかを尋ねたところ、「屋敷の中のみ堅固に守るように指示すればよかろう。」と告げたという記録もあるのでした。
江戸時代、隣家で騒ぎがあった場合には、近所のよしみで加勢するのが常識だったのに、幕府は助けなくてよいと指示したことになるのでした。
★それでは、どうして江戸幕府は仇討ちを黙認したのか?
それでは、どうして江戸幕府は仇討ちを黙認したのか?
それは、繰り返しになりますが、赤穂浪士を支持する世論の高まりだと思われます。
実際、赤穂浪士は、47人は吉良上野介の首を取った後、その首をさらし首にして江戸の町の主要道路を通り、浅野内匠頭の墓がある泉岳寺まで凱旋パレード的に行進します。
これを見物していた江戸の庶民は、この忠義に厚い浪士たちに惜しみない賞賛を送ります。
京から江戸に訪れていた、たまたまこの状況を見ていた人は、江戸が英雄たちへの賞賛で凄いことになっていると、京の家族に書いた手紙も残っています。
それくらいに、世間は赤穂浪士のことを知っていたし、「吉良上野介はお咎めなし」、「浅野内匠頭は切腹でお家断絶」というのは不公平だと思っていたし、幕府としても将軍・綱吉の独断で行った不公平な処分を後悔する風潮があったのだと思われます。
そして、この赤穂浪士の討ち入りが成功して、世間の批判をかわそうと考えていたと推測できると思われます。
★最後に
それでは、最後に内容をまとめます。
・赤穂浪士の討ち入りは、幕府はあらかじめ計画されていることを知っていた可能性がある。
・その理由は、①吉良邸を江戸の外れに移動させたこと、②討ち入りの計画があると幕府側の人間に漏れたにもかかわらず対策した形跡がないこと、③近隣の武士には吉良邸を助けなくてもいいと言われていたこと、などが挙げられる。
・では、なぜ、幕府は討ち入りを黙認するような行動をとったのか?それは、浅野内匠頭と吉良上野介の争いで、喧嘩両成敗なのに浅野内匠頭の処分が余りにも重たく、吉良上野介は無罪放免だったから。
・このため、江戸幕府は、赤穂浪士の討ち入りを成功させ、自分たちの裁定の批判をかわそうとしたと思われる。