冬姫とは、織田信長の二女ですが非常に美人で、女性的な魅力に溢れた人物だと言われています。
信長の命令で、当時の信長の家臣・蒲生氏郷に嫁ぎました。
夫は少年の頃に、信長にその素養を見込まれ、秀吉にも一目置かれていましたが、朝鮮出兵を前に40歳で亡くなってしまいます。
未亡人となった冬姫ですが、その女性的な魅力は衰えず、その噂は秀吉の耳に入ります。
このため、秀吉は、自分の側室にしようと呼び出したところ、尼の姿をして秀吉を完全拒絶した冬姫がありました。
今回は、この話を御紹介していきます。
目次
★信長と蒲生氏郷との出会い
織田信長が将来、大物になると見込んだ少年がいました。
永禄11年(1568年)、信長が、近江の観音寺城を攻めて、落城させました。
これにより、信長は、佐々木六角氏を破ります。その際に降伏してきたのが、蒲生賢秀の嫡子・鶴干代丸でした。
蒲生賢秀は、13歳の鶴千代丸を人質に差し出したのでした。
人質となった鶴干代丸は、澄み切った目をしていました。
武辺の談義を好み、夜更けに及んでも飽きず、心不乱に話す者の口元を見てやみませんでした。
信長は、鶴干代丸を気に入ります。そして、岐阜城において自らの手で元服させました。
これ以降、鶴干代丸は、氏郷を名乗るようになります。
★冬姫と氏郷との婚姻
元服した翌年、氏郷は、信長に従い初陣を果します。さらに、信長は、自分の二女の冬姫を氏郷の妻に与えました。
そして、氏郷は、信長が見込んだ娘婿だけあって、朝倉・浅井攻め、長島の一向宗門徒との合戦で期待通りの働きをしました。
氏郷と冬姫の夫婦は、蒲生氏歴代の城である近江日野城(滋賀県日野町)に住みました。
織田家は、容姿が美形な血筋でしたので、冬姫もまた美貌の持ち主でした。
しかし、なかなか子宝に恵まれません。しかし、ようやく、冬姫は、結婚して12年後にようやく娘を授かりました。
この間、信長は壮大華麗な安土城を築きます。
日野城から安土城までは北西へわずか8キロしか離れていませんでした。
このため、冬姫は、生まれたばかりの娘を連れて信長を訪れました。
信長も孫娘を見て、うれしそうです。しかし、それも束の間、孫娘誕生の翌年、信長は京都の本能寺で明智光秀の裏切りにあってしまいました。
★本能寺の変の後の的確な対応
本能寺の変が生じたとき、蒲生賢秀は、留守を任されて安土城にいました。
一方、冬姫は夫・氏郷と日野城にいて、これを知らされ、衝撃に言葉を失いました。
しかし、冬姫には、戦国を生きる女としての気丈さがありました。
「安土城はきっと攻められる。一刻も早く、安土にいる父上の家族をここにお連れもうさねば……」と思いました。
そして、妻のその言菓を待つまでもなく、夫・氏郷は輿五十挺、鞍を置いた馬百頭、駄馬二百頭に五百の手勢を引き連れて、直ちに安土城に向かいました。
蒲生賢秀は、機敏な息子の行動を喜び、信長の母、側室、また冬姫とは腹違いの弟妹たち、さらに侍女たちを無事に日野城に連れて帰ることができました。
ここで、冬姫は、身内の者たちの面倒をよく見ました。
そして、この頃に、冬姫は新しい命が宿ります。これは、亡き父・信長の命が自分の胎内に宿ったのだと信じました。
翌年、冬姫は嫡子・秀行を出産しました。
★蒲生氏郷の活躍
時代は流れ、世の中は、豊臣秀吉の時代となります。
そして、優秀な氏郷は、豊臣秀吉のもとでも功名をあげました。そして、会津黒川城で九十二万石と、徳川家康、毛利輝元に次ぐ高禄を得ることができました。
氏郷は、近江の故郷にちなんで会津黒川を会津若松と改名し、冬姫は、七層天守が輝く会津若松城の太守夫人となりました。
やはり、父・信長の目に狂いはありませんでした。氏郷は、文武両道にすぐれ、人望もあり、周囲の誰もが彼を認めました。
★蒲生氏郷の早すぎる他界
しかし、文禄二年(1593年)、秀吉の命により長女が前田利長に嫁いだ年、氏郷は朝鮮出兵の滞在先・肥前名護屋(佐賀県唐津市)で、にわかに下血し、京都に戻って諸医の治療を受けたものの、40歳で他界しました。
巷間に、氏郷の器量を恐れた秀吉が毒殺したとの噂が流れましたが、事実ではないと思われます。
それほどに、氏郷は優秀で、その早すぎる他界が惜しまれたという意味だと思われます。
会津若松の繁華街に、興徳寺があり、五輪塔の墓の脇に「かぎりあれば吹かねど花はちるものを 心みじかき春の山風」の辞世の歌碑が建っています。
★その後の蒲生家と冬姫
蒲生家では、嫡子・秀行が九十二万石の家督を引き継ぎ、家康の三女・振姫を妻に迎えます。
しかし、蒲生家の家臣の内紛に怒った秀吉が、慶長三年(1598年)、宇都宮十八万石に減封されました。
この減封の本当の理由は、冬姫にあると、徳川創業史を綴る『改正三河後風土記』には記載されています。
減封の年、冬姫は41歳になっていましたが、未亡人になっても、その容色は衰えず、しかも気品に溢れていました。
これを聞いた秀舌は、冬姫に心を動かされ「会津のような田舎にいてはさぞ淋しかろう。都に来て心を慰められよ」と手紙を書きました。
しかし、冬姫は、それを無視します。
これ以降、度々、秀吉から上洛を呼びかけましたが、蒲生の家臣は秀吉の機嫌をそこねては、まだ若い秀行の行く末が危うくなるとして、秀吉に従うように勧めたのでした。
★冬姫の無言の拒絶
このため、仕方なく、冬姫は上洛しました。
冬姫には、秀吉の心が読めていました、
秀吉は、織田家の女性にはご執心で、自分の体を求めていることは明らかでした。
一方冬姫は、「秀吉は織田家の奴僕にすぎぬ」と思っていたので、「なぜ自分が秀吉の側室にならなければならぬのだ。」との怒りを抱いての上洛でした。
対面の日、秀吉は上機嫌で冬姫を出迎えます。しかし、輿から降りた冬姫が被り物をとった瞬間、秀吉の表情が凍りつきました。
烏羽玉の黒髪を切り落とし、つづいて脱いだ外衣の下は、墨染めの尼衣で、数珠を手にしていました。
これほどの強烈な謝絶があるでしょうか。
秀吉は自らが冬姫を招いた手前、笑顔をつくって丁重にもてなし、淀殿などにも会わせてから会津に帰らせました。
しかし、秀吉の心は煮えくり返っていました。
そして、この腹いせに蒲生氏から会津の地を召し上げて、一挙に五分の一の石高に落としたというのです。
それから数か月して秀吉は亡くなってしまいます。
幸いにも秀行の妻が家康の娘だったことから、蒲生氏は家康の力で再び会津に復し、冬姫も胸をなで下ろしました。
冬姫は、長寿で84歳まで生きました。
しかし、反対に長生きは彼女にとって不幸でした。
それは、息子・秀行、孫・忠知が早死にし、おまけに男子が絶えて、蒲生氏が絶家となってしまう悲劇を、自分の目で見る羽目になってしまうのですから。