歴史上の人物

「崇徳上皇の怨霊」は平清盛に憑依して復讐をする

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 皆さんは、怨霊というものを信じますか?

 我々、現代人には、ピンとくるものはないと思います。

 しかし、平安時代の人々は、この怨霊というものに非常にナーバスになり、神社を建てて祀るなど、様々な鎮魂を行っていました。

 今回御案内する「崇徳上皇の怨霊」は、保元の乱で対立した弟・後白河法皇に襲いかかるものです。

 そして、更には、「崇徳上皇の怨霊」は、平清盛に憑依して後白河法皇に対してクーデターを決起します。

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 それでは、今回は、この「崇徳上皇の怨霊」について、御案内します。

★崇徳上皇は保元の乱に敗れて讃岐(現・香川県)へ流罪に

 崇徳天皇は、平安時代の末期に天皇に即位した人物です。

 血筋的には、あの後白河法皇の兄に当たる人物でした。

 このため、崇徳天皇として、後白河法皇よりも早く即位しますが、実質的な権力を握れないまま退位して上皇となりました。

 そして、保元元年(1156年)、皇位継承問題や摂関家の内紛により、崇徳上皇と後白河天応は対立し、保元の乱が起こります。

 この戦いは、双方が武士の力を借りたため、武士の存在感が増した戦いとして有名な戦いです。

 この結果、崇徳上皇は、後白河天皇に敗北して讃岐へ流刑となります。

 崇徳上皇は、讃岐の地で、剃髪して出家までして、謹慎の意を表わしましたが、後白河法皇は、崇徳上皇の帰京を認めようとはしませんでした。

 そして、崇徳上皇は、讃岐の地で、失意のまま亡くなったのでした。

★崇徳上皇の怨念は、讃岐(現・香川県)の地で、復讐の鬼へと変貌

 前述のとおり、亡くなる前には出家までして謹慎の意を表わした崇徳上皇ですが、帰京が認められず、無念が募ります。

 そして、この無念は、崇徳上皇を、讃岐の地で、復讐の鬼へと変貌させていくのです。

 このときの崇徳上皇の様子は、保元の乱の顛末を描いた「保元物語」には、『天狗となって、自分を追いやった者への怨念を燃やした。』と記されているように、崇徳上皇の怒りは死ぬまで鎮まらなかったというのでした。

★崇徳上皇の死後、怨念が顕現

 その後、崇徳上皇が亡くなります。すると、崇徳上皇の怨念が顕現したのか、後白河法皇の周辺で不幸な出来事は次々と起こりだします。

 まずは、平氏の勢いが増大し過ぎます。そして、平清盛の策略によって、後白河法皇の多数の腹心が厳罰に処されてしまいました。

  そして、更には比叡山の僧兵が強訴と称して都に乱入してきたほか、都で天然痘が大流行して多くの人々が亡くなりました。

 やがて後白河法皇も、亡き兄の崇りではないかと疑い始めます。

 このため、鎮魂として、亡き崇徳上皇に「崇徳院」という追号を贈りました。

 しかし、その翌年、清盛の二女で高倉天皇の中宮・徳子(後の建礼門院)が、妊娠中に体調を崩しました。

 そして、その原因を占ってみると「崇徳上皇の怨霊」という結果が出たのでした。

 この結果を聞いて、最も恐れおののいたのは、後白河法皇でした。

★更に後白河法皇を襲う不幸な出来事

 一方で、この当時、後白河法皇は、清盛と権力を分け合っていました。

 しかし、次第に武力を背景とした平氏の勢いは留まらず、後白河法皇は平氏を疎ましく思うようになってきます。

 やがて、後白河法皇は、清盛との対立姿勢をあからさまにしていきます。

 そして、清盛の意向を無視した人事を行い、平氏の領地を近臣に分け与えるなど、その対立姿勢はエスカレートしていきます。

 これに対して、怒りが治まらない清盛は、治承三年(1179年)、とうとう後白河法皇に対してクーデターを決起し、後白河法皇を幽閉して政権を奪取してしまいました。

★「崇徳上皇の怨霊」が平清盛に憑依してクーデターを起こす

 しかし、この清盛のクーデターは、「崇徳上皇の怨霊」だとも言われています。

 このクーデターの直前、清盛の弟・平教盛は不思議な夢を見ていました。

 それは、怨霊となった崇徳上皇が武士たちを引き連れて清盛の屋敷に入り込むという夢でした。

 不気味に思った平教盛は、清盛に告げましたが清盛は取り合わず、クーデターを強行したのでした。

 ちなみに、この当時、朝廷・公家が社会の中心であると考えられていたため、武士がクーデターを起こし、政権を奪取し、法皇を幽閉するなどということは、人々の想定外のことでした。

 このため、人々は、「崇徳上皇の怨霊」が清盛に憑依したのだと思うようになるのでした。

★その後も「崇徳上皇の怨霊」は後白河法皇に襲いかかる

 その後も後白河法皇の周辺では、不可解な事件が続きます。

 御所炎上、突然の暴風、朝廷関係者の自宅や関連施設からの出火などが相次ぎました。

 現代人の我々から見ると、「そんなこともあるだろう。」というような出来事ですが、平安時代の当時の人々は「崇徳上皇の怨霊」と恐れたのでした。

★最後に

 日本国民の多くは無宗教な人が多く、ナカナカ神様という存在を信じようしない人が多いです。

 実際、カトリック教会が日本で行った布教活動に費やした金額を鑑みると、日本国民全員がキリスト教徒になっていてもいいという内容の記事を読んだ記憶があります。

 しかし、反対に、怨霊、怨念、恨みを買うといったことについては、現代人の我々でもナーバスになるときがあります。

 平安時代においては、現代よりも更にナーバスになって、怨霊という言葉に反応しても不思議ではなく、「崇徳上皇の怨霊」が平清盛に憑依したと恐れられたのでしょうね。

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