歴史上の人物

徳川家康と家臣団との結束

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 その忠誠ぶりはまるで犬のようだ! と言われた徳川家康の家臣である三河武士団。

 それは、三河武士団の性質とも言われていますが、家康は人心掌握術に長けており、家臣団をまとめ上げることが、とても上手かったと言われています。

 今回は、徳川家康と家臣団のエピソードを御紹介します。

 

★徳川家康の宝物は何と聞かれ

 豊臣秀吉が関白だった頃、諸大名を集めてみずからが持っている豪華絢爛な名宝の数々を自慢しました。

 そして、家康の順番になり、どのような宝を持っているかと尋ねられたところ家康は、次のように回答しました。

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 「私は田舎の生まれですので、珍品といわれるようなものは持っておりません。しかし、私のために命を賭けてくれる武士が配下におります。私にとって1番の宝は彼らだと言えるでしょう。」

 これを聞いた秀吉も、ぜひ欲しいものだと、言わせしめたそうです。

 

★徳川家康は敵方の有能な者を登用する

 家康は、敵方の有能な者を登用していくことでも有名でした。

 その最たる例が、徳川四天王の1人である井伊直政。彼はもともと今川家の家臣でした。

 また、武田家滅亡の後、旧武田家の家臣団をこぞって登用して徳川軍の強さに磨きをかけていきました。

 よく、「井伊の赤備え」と言って、徳川軍の最強武士団のように言われていますが、これは当初は、「武田の赤備え」と呼ばれた武士団をそのまま井伊直政の配下にするなど、常にどうすれば徳川家のためになるのかを考えていたものと思われます。

 ここで、一つ疑問が湧きます。

 いかに、井伊直政が有能であったといえ、外部からの登用した家臣を登用していくと、三河の古参武士団は嫉妬を起こし、家臣団の経営がうまく行かなくなるとも思われます。

 ここで、信長、秀吉、家康のブレーンと呼ばれる人物の比較をしてみます。

 

 信長:ワンマン

 秀吉:初期:竹中半兵衛、中期:黒田官兵衛、後期:石田三成といったように、その時期に一人の腹心の部下を重要視

家康:初期:石川数正、酒井忠次、本多重次

   後期:成瀬正成、本多正純、竹腰正信

 

 また、家康は、各分野から、それぞれの専門性に応じた意見を聞くことでも有名で、

 色々な家臣から色々な意見を聞くとともに、内容によっては、町人、職人などからも幅広く意見を聴取していた。

 更に、家康は、身分の低い家臣も顔・名前を覚え、その戦績も思い出したように褒めたたえるなど、様々な気遣いが伺われるなど、家臣団が不公平感を持たないようしていたものと思われます。

★最後に

 最期に、家康と家臣団とのエピソードで、家康の人心掌握術が垣間見えるエピソードを御紹介します。

 家康の故郷である三河国岡崎で、洪水が発生し、川に架かっていた橋が流されてしまいました。

 家康はすぐに新しい橋をかけるよう家臣に命令します

 ところが、家臣は、橋を架けずにおけば、他国の攻撃を防ぐことができると考えで、新しい橋を架けることを反対しました。

 その理由を聞いて、家康はこのように答えたと言います。

 「領民たちのために川に橋は必要なものだ。それに、他国の兵士を防ぐために、私が川を頼る必要はない。お前たちを頼ればいいからだ。」

 家臣たちは、家康に信頼されていることに感動し、すぐに新しい橋を架けました。

 

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