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★小牧・長久手の戦いが秀吉不利な戦況だったのはなぜ
小牧・長久手の戦いというと、羽柴秀吉が徳川家康と戦い、秀吉の不利のままの戦況で終わった戦いということで知られています。
両軍の戦力はというと、羽柴軍10万人に対して、家康軍は1万7千人と、圧倒的に秀吉軍が有利な状況でした。
いくら野戦と得意とする家康であっても、戦上手の秀吉が、こんなに兵力に差がありながらも、どうして有利に戦況を進めることができなかったのでしょうか?
さらには、そもそも秀吉には、言わずと知れた軍師・黒田官兵衛がありながら、このような結果になってしまったのかを御案内していきます。
★小牧・長久手の戦いの始まり
小牧・長久手の戦いは、亡き織田信長の次男・織田信雄が、家康に同盟を持ち掛けたことに始まります。
信雄にしてみれば、自分は秀吉の主筋の織田家の人間であり、天下取り目前の秀吉が織田家を蔑ろにしているという理由でした。
これに対して、家康においても、秀吉の勢いがいずれ自分に災いをもたらすであろうことを察知し、同盟を結ぶのでした。
★池田恒興の寝返りと奇襲の進言
小牧・長久手の戦いのキーポイントは、元々家康側についていた池田恒興(いけだつねおき)の裏切りにあると思われます。
秀吉側が、恒興に対して提示した報奨が徳川家の三河などの3か国と好条件であったため、寝返ったものだと思われます。
ただし、それは、三河など3か国という、その時点で家康が支配していた土地なので、恒興にしてみれば、何としても家康を討伐したいという思いは強かったものと思われます。
この恒興の武功にはやる気持ちが、秀吉に対して奇襲作戦を強く進言することになるのでした。
★黒田官兵衛が不在中の池田恒興の奇襲の失敗
恒興が提案した奇襲の内容は、その時点で小牧山城に陣を構える家康軍に対して、その反対側である家康の居城の岡崎城に2万人で攻め入るというものでした。
家康の本隊は、家康とともに小牧山城にいますので、居城である岡崎城は留守番兵がいるのみで、手薄であるところを攻め入ろうというものでした。
これに対して、秀吉はなかなか首を縦には振りません。
一方で、この時期、秀吉の懐刀である官兵衛は、蜂須賀正勝を伴って、中国の毛利氏と領土の境界の交渉をするため、この戦いの軍陣には参加していませんでした。
結局、秀吉は恒興の進言を認めて、奇襲を実行しますが、失敗してしまいます。
戦況で悩んだ時には、常に官兵衛に相談していた秀吉にとって、自分の判断だけでは天下は取れないと悟った出来事だとも言われています。
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★小牧・長久手の戦いに官兵衛が不在だったことの違和感
官兵衛というと、秀吉の軍師として活躍した人物で、官兵衛がいなければ、秀吉は間違いなく天下は取れなかったと言っても過言ではないでしょう。
秀吉は、戦況のみならず、困難な局面が生じたときは、常に官兵衛に相談をし、解決策を得ていたといいます。
このように、蜜月関係にあった両者に亀裂が入り始めたのが、中国で毛利家と対峙している際に入った信長の本能寺の変での悲報にあると言われています。
信長の悲報を受け、途方にくれる秀吉に対して、官兵衛は「秀吉様、御運が開けましたな。天下をお取りなさいませ。」と言葉をかけたことによって、反対に秀吉にその冷静さ、緻密さ、状況判断の凄さの脅威を与えることになります。
このため、秀吉にしてみれば、その後は、できるだけ官兵衛を使わずに天下を取っていきたいという思いが、この頃から出始めていったと言えるのではないでしょうか。
★その後の四国・九州地方の平定に活躍した官兵衛
小牧・長久手の戦い後も秀吉の天下統一の道は続きます。
秀吉は、官兵衛に脅威を感じながらも、四国・九州地方の平定を、最も上手く実行してくれるであろう彼を用います。
これに対して、官兵衛も、巧みな策謀と、人心掌握術とを用いて、これを平定してしまいます。
しかし、秀吉は、恩賞において官兵衛を冷遇しました。
小早川隆景には筑前52万石
佐々成正には肥後50万石
しかし、最大の功労者である官兵衛には豊前の国の一部僅か12万石しか与えられませんでした。
それでも、官兵衛は、不平不満をいうことなく、黙って豊前の国に向かいました。
★官兵衛に隠居を決意させた秀吉の言葉
秀吉が天下取りを目前に迫った頃、秀吉が会話の中で、「もし、官兵衛がその気になれば、天下取りができる。官兵衛の冷静沈着な能力は類をみない。」と言ったということが、官兵衛の耳に入ります。
官兵衛は、これを聞き、顔色が変わったと言います。
そして、このように秀吉に思われているということは、自分の居場所がなくなったということを悟り、秀吉に隠居を申し出ます。
★隠居した官兵衛の最後に仕事
隠居した官兵衛ですが、秀吉に請われ、天下統一の最後の戦いとなる北条氏との小田原城の戦いに出陣します。
小田原城は難攻不落の城です。北条氏も粘りナカナカ城は落ちません。
このような状況において、秀吉は、北条氏との和議の使者として、官兵衛を立てて折衝に向かわせます。
そして、巧みな交渉能力で小田原城の開城に成功し、秀吉を天下人にまで押し上げたのでました。
★黒田官兵衛威に天下の野心はあったのか
黒田官兵衛は、緻密な策略と、冷静沈着な性格、奇想天外な発想、周囲の状況を的確に見極める判断力で、秀吉に天下を取らせました。
しかし、二人三脚で信長に仕えて戦争を繰り返していましたが、信長の死後、官兵衛の能力の高さゆえに秀吉の脅威となり、早々に第一線から身を引くこととなります。
では、実際、隠居した時に官兵衛は天下取りの野心はあったのでしょうか。
ここからは、私見となりますが、恐らくなかったものと思われます。
隠居した時点においては、明らかに恩賞に不公平が生じており、秀吉が自分を警戒していることを見通していたと思われます。
そのような状況で、少しでも不穏な動きを見せれば、忽ち自分自身が秀吉に殺されてしまうことは分かっていたでしょうし、そんな状況で秀吉が自分の能力に脅威を感じているということを聞いたとき、自身の身の危険を感じて隠居したと考えるのが論理的なのかと思われます。
しかし、一方で、隠居後において、関ヶ原の戦いで、両軍疲れ切ったところに攻め入り、天下取りを狙ったというエピソードもありますが、この時は、野心満々だったと思います。
この関ヶ原の戦いで、漁夫の利を得ようとした策略は、合戦がたった一日で終了してしまったため、実現しませんでしたが、もしあと何か月か続いておれば、日本の歴史も違うものになっていたでしょうね。