松姫は徳川家康とは異父妹に当たる女性ですが、不幸ながら24歳の若さで嫁ぎ先の戸田家で亡くなってしまいます。
しかしその後、戸田家で不幸なことが起こると松姫の祟りと言われるようになり、祀られるようになりました。
今回は、このお話について、ご紹します。
目次
★徳川家康の異父妹
徳川家康の生母・お大の方は、父・松平広忠と御家の事情で離別させられます。
その後、お大の方は、久松俊勝と再婚し、久松家で三男四女に恵まれます。今回ご紹介する松姫は、この久松家の三女に当たります。
★家康と松姫の嫁ぎ先戸田家の関係
家康にとって戸田家は、まこと複雑な想いを抱かせる御家でした。
家康の生母・お大の方が父・広忠と離縁すると、広忠は後妻に戸田氏から真喜姫を迎えました。
つまり、真喜姫が家康の継母になりました。
一方、家康は六歳のとき、今川の人質となるため、岡崎から駿府に送られますが、このとき、家康を護送したのが戸田氏でした。
しかし、戸田氏は当時、今川氏に属しながら、今川氏に遺恨を抱いていました。
また、戸田氏は、松平家に対しても、不信感を持っていました。
それは、父・広忠が岡崎城の本丸は家康のものだとして、真喜姫を本丸に住まわせなかったという理由によるものでした。
そこで、なんと戸田氏は、家康を今川氏に届けず、敵対関係にある織田家に売り飛ばしてしまいました。
怒った今川氏は、戸田氏を攻めます。真喜姫の父・康光、兄・尭光は、今川氏を相手に戦死してしまいました。
このため、実家を失った真喜姫は夫・広忠の死後も岡崎城にとどまり、家康が今川氏の人質を解かれた後、家康が真喜姫の面倒をみました。
ところで戸田尭光の弟で仁連木城(愛知県豊橋市)にいた宜光は父兄と同じ道をとらなかったために生き残ることができました。
そして、やがては、家康を支える重要な家臣となっていきます。
この仁連木戸田氏の康長(宜光の孫)は六歳で父・忠重を失うと、家康は康長をあわれんで家督相続を許し、五歳の松姫を許婚けたのでした。
★松姫はふくよかな美人
戸田家に嫁いだ松姫はふくよかな美人だったとされ、長子・永兼を産みます。
また、夫婦仲も良く、幸せな暮らしでした。
しかし、天正十六年(一五八八)、彼女は、病気を拗らせ、わずか二十四歳にて仁連木城で亡くなってしまいました。
★それからの戸田家
戸田家は、元和三年(一六一七)に松本(現在の長野県松本市)に転封となります。
そして、松姫の夫・康長は、松姫の産んだ長子・永兼が 病弱だったため家督は継がせませんでした。
家督を側室が産んだ康直に継がせます。
しかし、そのころから戸田家には不運が続くようになりました。
これは、若くして亡くなった松姫の無念と、わが子が藩主になれなかったのを恨んでいる松姫の崇りだと言われ出しました。
★松姫の祟りと伝説
そして、この松姫の祟りのお話は、更に大きくなっていきます。
実際は、相愛の夫婦仲だった松姫と康長ですが、松本では、二人は仲が悪く、彼女は松本城の堀に身を投げたとか、松姫は醜い女性で、嫉妬深かったなどという、虚飾に満ちた伝説となっていきました。
★神様として祀られている松姫
ちなみに、前述のとおり彼女は、戸田家の転封前の仁連木城で亡くなっており、伝説となっている松本城のお堀に身を投じることはできません。
しかし、家康の異父妹という影響もあってか、松本城で伝説となった彼女の祟りを鎮めるため、松姫は暘谷様として、城近くの松本神社に祀られています。
本当は、夫・康長と一緒に暮らしたかったであろう松姫にとっては、理由はどうであれ、そこで祀られているのは、ある意味で幸せなのかも知れませんね。