三方ケ原の戦いとは、甲斐の、武田信玄が二万五千の大軍で、浜松城主・徳川家康を浜松城の西北にある台地・三方ケ原におびき出し、家康八千、信長からの援軍三千の兵で戦った合戦です。
結果は、家康方の完膚なきまでの大敗で、家康は八千の家臣の一割に当たる八百人を失ってしまいました。
今回は、この三方ヶ原の戦いについて、ご案内します。
目次
★武田信玄の進軍が始まる
戦国時代の群雄割拠がひしめく中、織田信長が足利義昭を将軍に擁立するために上洛したのをきっかけに、時代は信長の方向に流れて行きます。
しかし、まだまだ反信長を掲げる反対勢力を多数おり、その反対勢力の希望は武田信玄の上洛に向いていました。
そして、遂に、その信玄が上洛のために進軍を開始します。
その行程は、甲斐の躑躅ケ崎館から大軍二万五千を連れて出陣し、始めに信濃と遠江の国境青崩峠およぴ兵越峠を越えて遠江に侵攻してきたのでした。
そして、この無敵の武田軍を最初に迎え撃つのは、隣国に位置する当時31歳の家康でした。
★武田信玄の思慮深い戦略
信玄軍の進軍ルートから見ると、常識的に考えれば、遠江からそのまま天竜川に沿って南下し、一気に二俣城を攻め、さらに浜松城を攻撃してくるものと思われました。
しかし、信玄は、いきなり二俣城・浜松城を攻めるのではなく、まずは遠江東部の支城を落としたあと、二俣城を攻めて、落城させました。
これは、二俣城・浜松城と、遠江東部の家康方有力支城の掛川城・高天神城を遮断する狙いだったと言われており、信玄の深謀遠慮ぶりがうかがえる戦略でした。
★武田信玄は浜松城を通過する
そして、二俣城を落とした信玄が、いよいよ徳川軍本体八千、信長軍三千が籠城する浜松城攻めに向かったわけですが、どういう訳か浜松城を通過し、三方ケ原台地の方向に向かって行ったのでした。
これも、通常であれば、浜松城を力攻めにするところですが、信玄は家康をあえて無視するような行動をとったのでした。
★武田信玄は徳川家康を三方ヶ原に誘い出す
それでは、どうして信玄はこのような行動にでたのでしょうか?
それは、よく「攻者三倍の法則」という言い方をしますが、城攻めのとき、籠城している兵の三倍の軍勢でその城を攻めれば落とすことができるというものです。
このことは逆にいえば、三倍の兵で攻めなければ落ちないということでもあります。
前述のとおり、家康の最大動員兵力は八千でした。
ところが、近くまできたところで、浜松城には信長からの援軍が三千が来ていることを知り、浜松城を落城させるためには、三倍未満の兵力では何ヶ月もの日数を要することを考えて、無理な城攻めはしなかったも思われます。
そこで信玄は、浜松城を力攻めするという作戦を変更し、家康を野戦に誘い出すのでした。
★そして徳川家康は武田信玄の誘い出しに応じる
そして、この信玄の誘い出しを受け、家康は三方ケ原へ進軍していきました。
この信玄に野戦を挑んでいった家康についてよく言われることは、家康このとき三十一歳で、まだ血気盛んだったため、敵が自分の家の庭先をズカズカと、まるで「お前なんか相手にしない」と言われているかのごとく通っていくのが許せなかったという説である。
しかし、本当のところはどうだったのでしょうか。
あの冷静な家康が、いくら血気盛んといっても、あと先のことを考えず、その場の感情だけで無敵の武田軍に飛びかかって行くことに違和感を覚えてしまいます。
そこには、何か別の理由があったのでしょうか?
★徳川家康が武田信玄に飛びかかっていった本当の理由は?
ここで考えられる理由に、信長との同盟という名の主従関係があげられます。
信長と家康の同盟は「清須同盟」の名で知られているが、世間で考えられているような対等の同盟ではありませんでした。
家康は、常に信長の顔色を伺っている状態でした。
そして、その信長は、浅井・朝倉と対決し、一向一揆にも手を焼いている状態でした。
当然、信長から家康には、出来るだけ浜松城にクギ付けにして時間を稼いで欲しい旨の指示連絡はあったと思われます。
そんな時に、家康にしてみると、浜松城に籠城していたら、武田軍が通り過ぎて行きました、西に向かうと思いますので、信長さんお願いします、とは言えない状況でした。
このため、家康は、浜松城を飛びだし信玄の誘い出すに乗って戦いに挑んでいったのだと思われます。
一方、信玄にしても、それを察知して、つまり家康は誘い出しに乗ってくると確信して野戦に持ち込んだ可能性は十分にあります。
仮に、このまま武田軍が西上して行った場合、織田軍と徳川軍とのハサミ打ちに合う可能性もあります。
その場合には、前方に織田軍二万五千、後方に徳川軍一万一千を迎え撃つというのは、余りにも危険です。
ですから、信玄は、家康は野戦に応じるという確信のもと、誘い出したと思われます。
★徳川家康が脱糞しながら武田信玄から敗走する
誘い出しに応じた家康は、三方ケ原に待ち受けていた武田軍のところに飛びこんでいく形で、戦いに挑みます。
しかし、結果は、前述のとおり徳川軍八千の一割にあたる八百いう犠牲者を出してしまいました。
そして、敗走途中に家康が恐怖のあまり脱糞しながら馬に跨り逃げたのは有名な話ですが、その途中に家康の家臣が何人も家康の身代わりになって戦死していきました。
家康にとって、この「三方ヶ原の戦い」は、生涯最大ともいえる大敗北でしたが、実は、この大敗北がその後の家康が将としての飛躍のバネになったことも事実でした。
★三方ヶ原の戦い後に成長した家康
家康は、このときの三方ケ原の大敗北を契機に、人間的にも大きく成長しています。
当時の家康は、家臣を大事に扱ったり、「家臣のおかげ」などといったことを口にすることはありませんでしたが、自分の身代わりになって何人もの家臣が武田軍の標的になって殺されていく姿を見て、真に家臣の大切さ、そして自分は家臣に支えられているということを実感しました。
後年、秀吉の呼び掛けで大坂城に各武将が宝を持ち寄って集まった際に、「宝の中の宝というは家臣にしくはなし(家臣こそわが宝)」と述べています。
家康のこのような認識は、三方ケ原の戦いで八百人を失ったことが発端であったのでした。
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★徳川家康の肖像画(神君おしかみの像)
三方ケ原の大敗北が家康のその後の生き方を変えた徴証がもう一つあります。
それは、現在、名古屋市の徳川美術館に所蔵されている家康の画像・「徳川家康三方ケ原戦役画像(神君おしかみの像)」です。
これは、有名な話ですが、三方ケ原の戦いで敗れ、ボロボロになり浜松城に逃げ帰った家康が、絵師をよんで、自分のみじめな負け姿を描かせたものです。
しかも、それだけなら、単なる敗北記念画像ですが、家康の凄いところは、この絵を小さな巻物にして、常に座右に置いていたのでした。
そして、少しでも慢心の気が出てきたと感じたとき、この絵を広げ、「自分にも、こんなつらいときがあったのだ。」と常に気を引き締めていたのでした。
このような意味で、三方ケ原の大敗北は、のちの天下人家康をつくる大きなきっかけになった戦いであったと思われます。