古代史における代表的な戦いの一つに、物部氏と蘇我氏との戦いがあげられます。
六世紀後半なると、日本においても、近畿地方の豪族が連合を組み、ようやく国家の枠組みの形成が始まります。
そして、政府である大和朝廷内部では、壮絶な権力争いが繰り広げられていました。
その対立は、大連・物部氏と大臣・蘇我氏でした。
物部氏は軍事・警察権を管轄し、神事にも深くかかわる名門の氏族で、大和朝廷における守旧門閥派の代表格でした。
一方で、蘇我氏は財務・外交関係を掌握する新興の氏族で、中国や朝鮮半島から日本に移住してきた渡来人との関係が密だったことから、大陸文化の導入にも積極的な姿勢を示していました。
この両氏は、崇仏論争という仏教の受け入れ問題を発端として、朝廷の実権を巡る権力闘争へと発展していきました。
今回は、この物部氏と蘇我氏との戦いについて御案内します。
★物部守屋と蘇我馬子との罵倒
敏達十四年(585年)、敏達天皇が崩御すると、物部氏と蘇我氏の対立が本格化し始めます。
そして、遂に、敏達天皇の葬礼の席で、物部氏の頭領である守屋が、蘇我氏の首領である馬子と罵り合う事態にまでの事態に発展したのでした。
この両氏の権力闘争は、両氏の対立の発端となった崇仏論争から、次期天皇擁立へと発展していったのでした。
このとき次期天皇候補の地位には、敏達天皇の子である押坂彦人大兄皇子が既についていました。
しかし、朝廷の重鎮である守屋は、同じ崇仏派の豪族・中臣勝海らとともに用明天皇の異母弟・穴穂部皇子を次期天皇に推しました。
一方、新興豪族の蘇我馬子は、穴穂部皇子の弟・泊瀬部皇子(のちの崇峨天皇)を次期天皇に擁立しょうともくろんでいたのでした。
★物部守屋包囲網を蘇我馬子が仕掛ける
この両氏との対立に、先に動いたのは馬子の方でした。
馬子は、まず守屋と仲が良く、そして次期天皇に推す穴穂部皇子に接近しました。
これに激怒した守屋は、中臣勝海とともに穴穂部皇子擁立派から押坂彦人大兄皇子擁立派へ転じました。
すると馬子は、接近をはかっていた穴穂部皇子を、馬子自身が暗殺してしまうという傍若無人な行動に出たのでした。
これは、穴穂部皇子は依然として守屋と深い関係にあったので、再び二人に組まれることを警戒したものと考えられています。
そして、馬子は諸皇子や群臣らに守屋打倒計画を持ちかけます。
さらには、他の豪族たちも自分の派閥に引き入れ、守屋を次第に孤立させていったのでした。
このような馬子の根回し策は功を奏します。有力豪族のほとんどが馬子のもとに集まり、反守屋の図式がはっきりと固まってしまったのでした。
★物部守屋の邸宅を蘇我馬子が取り囲む
このようにして、多数の味方を引き込むことに成功した馬子は、十分な戦力を持って、いよいよ軍事行動をはじめます。
用明二年(587年)七月、蘇我軍は二軍編成で河内国(現:大阪府)渋川の守屋邸を取り囲みました。
第一軍は馬子をはじめとして泊瀬部皇子、竹田皇子、難波皇子、春日皇子、厩戸皇子(聖徳太子)、紀男麻呂、巨勢比良夫、膳傾子、葛城烏那羅から構成されたものでした。
そして、さらに第二軍として大伴氏、阿倍氏、平群氏らの有力豪族が駆けつけます。
これに対し、守屋は孤立無援の状態になってしまいました。
しかし、物部氏は、軍事・警察権をつかさどる名門の豪族だけあって、押し寄せる大軍を前に、決して引くことなく戦いました。
けれども、いかんせん多勢に無勢です。守屋はよく奮戦しましたが、戦局は蘇我軍の優位に展開していきます。
そして、最後には、守屋が矢に射られ、入鹿側の勝利に終わったのでした。
★物部氏の滅亡
これにより物部氏本家は滅亡して、蘇我氏が朝廷内の権力を握ることになりました。
これまで、両氏が対立した原因は、崇仏論争という仏教の受け入れに反対する物部氏と賛成する蘇我氏という仏教の受容問題だとされてきましたが、近年の研究により、崇仏論争もあったものの、その実態は朝廷の実権をめぐる権力闘争だったとの意見が有力になっています。
このような、物部氏と蘇我氏との権力闘争は、根回しをはじめとする頭脳戦に秀でた蘇我馬子の勝利で幕を閉じました。
この闘争での勝敗の差は、まっすぐ正攻法で攻めた守屋と、根回しを繰り返し味方を多く引き入れた馬子との知略の差にあったといえます。