長屋王とは、天武天皇の息子と天智天皇の娘の間に生まれた皇族で、皇位継承者候補とも目されていた人物です。
7世紀末、藤原不比等が亡くなると、この長屋王という皇族が、急速に朝廷内で勢力を伸ばしてきました。
これに対して、自分たちの勢力を拡大しようと、藤原不比等の息子が四名がかりで、長屋王に陰謀を仕掛けます。
これは「長屋王の変」と言われていますが、今回はこの内容について御案内します。
目次
★長屋王とは
長屋王とは、前述のとおり、藤原不比等の死亡後に朝廷内で勢力を拡大してきた人物でした。
また、彼は、政治家としても百万町歩開墾計画、三世一身法などの政策を実施するなど、優秀で、周囲もその実績を認めていました。
そして、神亀元年(724年)に聖武天皇が即位すると、正二位左大臣に任命されて、その当時の朝廷政権のトップに立ちました。
★藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)の動向
これに対して、藤原不比等の跡を継いだ藤原四兄弟ですが、不比等が死亡したときは年齢的に、まだ若かったため、長屋王に先を越された感がありました。
しかし、聖武天皇という藤原氏の外戚関係にある天皇が即位すると、巻き返しを狙っていました。
そんなとき、聖武天皇と藤原四兄弟の異母兄妹の光明子が無事に男子を出産します。
しかし、藤原四兄弟は、この皇子を次の皇太子とすべく画策していた矢先に、その皇子は僅か1歳で他界してしまいました。
このため、藤原四兄弟は自分たちの勢力拡大のため、聖武天皇のあとの皇太子を、藤原氏の外戚にするためには、どのようにすればいいのかを考えます。
すると、その解決策は、自分たちの異母兄妹・光明子が聖武天皇の皇后になることが必要なのでした。
しかし、当時は、皇族出身以外の女性が皇后になることは、律令で禁止されていました。
しかも、長屋王は、過去にも律令を重視するがあまり藤原四兄弟と対立しており、光明子の立后を認めるはずがありませんでした。
★長屋王に噂される写経での呪術
ここで、神亀六年(729年)、長屋王は写経で呪術を使い、聖武天皇と光明子の子を呪い殺したという嫌疑がかけられます。
そして、この内容は、『左道(呪術)を学び、国家転覆を狙っている。』という嫌疑に変わっていきました。
さらに、その嫌疑の真偽を確認するという名目で、藤原四兄弟は、長屋王の邸宅に兵士を送りこみ、長屋王とその一族を自害へと追い込んだのでした。
この事件は、嫌疑の発生から決着までわずか三日間で終了していることからも、藤原四兄弟が十分に用意周到な上で、起こした事件だったと言われています。
★「長屋王の変」の不可解な点
しかし、一方でこの長屋王事件には、不可解な点もあります。
それは、いくら朝廷内で幅を効かせていた藤原四兄弟とはいえ、当時の朝廷政権の中枢をつかさどっていた長屋王に対して、こんなにも簡単に兵士を送り込み、自害に追い込むことができるのかどうかということです。
このため、近年は、この長屋王の変には、聖武天皇も含んだところでの陰謀ではないかと言われています。
★浮上する聖武天皇の陰謀説
聖武天皇が即位して、長屋王は正二位左大臣の官位につき、活躍します。
しかし、一方で、聖武天皇との間には少しずつ小さな溝ができ、意見の相違が生じていました。
この聖武天皇と長屋王との溝は、先述の通り長屋王が、両親とも皇室出身者であったのに対し、聖武天皇は母親が藤原家出身の民間人だったため、血統的なコンプレックスが大きな原因だとも言われています。
さらに、前述のとおり、長屋王は政治家としても優秀だったため、聖武天皇は長屋王を過剰に意識するようになったとも言われています。
そして、聖武天皇は、光明子との間に子ができるやいなや、皇太子に任じて次の天皇にしようとしましたが、その子がわずか一歳で天逝してしまいます。
そんな時に、長屋王にまつわる噂が流れます。
それは、聖武天皇の子が生まれる少し前から、亡くなった十日後まで写経を続けたというものでした。
長屋王がいうには、写経の目的は自分の両親の追善と聖武天皇の延命を願ってのものと説明していましたが、聖武天皇にとっては我慢ならないことだったのかも知れません。
そこで、聖武天皇は、藤原四兄弟に長屋王の殺害を命じたのではないかというのでありました。
★これ以降の藤原四兄弟と藤原氏の繁栄
この「長屋王の変」以降、藤原氏は、朝廷内での権力基盤を固めました。
そして、平安時代に入ると摂政や関白といった政権の中枢を独占するようになります。
世にいう「藤原時代」と呼ばれるほど栄華を極めました。
その後、鎌倉時代に複数に分家しましたが、一族が朝廷内で発言力を失うことはなく、明治維新まで朝廷内の中枢を担う役職にあり続けました。
このため、藤原氏がこのような絶対的な権力を握るきっかけは、この「長屋王の変」だと言われています。