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★二・二六事件の概要をわかりやすく
昭和十一年(1936年)二月二十六日未明、世にいう「二・二六事件」が勃発しました。
この事件は、約千四百人の青年将校が決起して、いくつかの部隊に分かれ、首相官邸や陸軍大臣官邸などを一斉に襲撃しました。
この二・二六事件の目的は、武力によって元老や重臣、軍閥などを打倒し、天皇親政による「昭和維新」を断行するというものでした。
これにより、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監らが暗殺され、鈴木貫太郎侍従長も重症を負いました。
そして、決起部隊は、昭和天皇が自分たちの行動を喜んでくれるものと信じて行いましたが、昭和天皇は自分の側近を殺されて激怒するとともに、軍首脳に対しては、速やかに鎮圧するように指示したのでした。
このため、決起部隊に対して、ラジオや飛行機からビラなどを使って投降を呼びかけます。
こうして、決起部隊の全員が投降し、四日間に及ぶ事件は終了したのでした。
今回は、この二・二六事件について、御案内します。
★二・二六事件の原因と昭和天皇の怒り
この二・二六事件は、いわば陸軍によるクーデターでしたが、このクーデターは失敗に終わりました。
前述のとおり、決起部隊は昭和天皇が自分たちの行動を受け入れてくれると考えていたにもかかわらず、怒りをかってしまいました。
クーデターが失敗した場合、通常であれば、以降のその組織の勢力は減退することになるのですが、二・二六事件の場合は、反対に軍部の発言力が増大することになりました。
その理由は、この二・二六事件が、陸軍の中の「皇道派」と呼ばれる派閥の中の一部の青年将校たちによる決起に過ぎなかったからでした。
つまり、世間の認識は、陸軍の組織内の実権を持っていない青年たちでも、これだけの武力行為を行うことができるということに恐怖を実感したのでした。
一方、この当時の陸軍内には、「統制派」と「皇道派」の二つの派閥があり、両者は激しく対立していました。
この両派閥の思考過程の違いは、「統制派」は官僚や財界と提携した現実的な路線で国家改造を行おうとする一派であるのに対して、「皇道派」は天皇親政による政治革新を唱える急進的な一派でした。
どちらの派閥においても、国家改造が必要であることと、それを断行しようとする点では一致していましたが、方法論は全く違うものでした。
そして、「統制派」と「皇道派」の対立が深まっていく中、遂には陸軍内部の人事を巡って暗殺事件が起こるなど、壮絶な派閥抗争へと発展していきました。
その後、この派閥闘争の中で優位に立ったのが「統制派」でした。
このため、「皇道派」の一部の青年将校たちが、形勢不利からの逆転を図るため、この二・二六事件を勃発させたのでした。
★二・二六事件は、五・一五事前のように事前情報が洩れることはなかったのか?
ただ、ここで二・二六事件にも、五・一五事件と同様の疑問が生じます。
それは、なぜ、これほどまでに大きな武装決起が、事前に暗殺された本人たちに漏れなかったのだろうかということです。
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おそらく憲兵隊や特別高等警察が情報をキャッチできなかったということは考えにくいと思われますし、同じ陸軍内でも「統制派」が何らかの動きを察知していても全然不思議ではありません。
さらには、「皇道派」の首脳たちは、自分たちの部下に当たる青年将校のクーデター計画を知らなかったというほうが不自然だと思われるのです。
そして、これについては、軍首脳による「泳がせ」ではなかったかという指摘がなされています。
軍首脳はクーデター計画を知っていたにもかかわらず、そのまま見て見ぬふりをしていたのではないかというのです。
つまり、「皇道派」の首脳たちは、自分たちの部下である青年将校の決起に直接は関与していなかった。
しかし、内心では彼らを激励しており、決起が成功した場合、それに乗じて政権を奪取するという筋書きを描いていたという推測がなされているのです。
そして、一方のライバルである「統制派」の首脳たちは、このような根回しができていない準備不足のクーデターが成功するはずがないとタカをくくっており、失敗した後に「皇道派」を制圧することで、「皇道派の一掃」と「軍部政権の樹立」という一石二鳥をもくろんでいたのではないかというのです。
★二・二六事件のその後を簡単に
いずれにせよ、「皇道派」の青年将校たちの決起は失敗に終わりました。
そして、弁護士もつかないままに一審制度の裁判によって十七人の将校が処刑されたのでした。
さらには、彼らの思想的指導者として北一輝と西田税が逮捕されて、処刑されました。
この北一輝は、戦前最大の右翼イデオロギーとして有名な人物で、「皇道派」の若手将校たちと交流して思想的影響を与えていました。
また、西田税は陸軍士官学校出のエリート将校を経て、北一輝一門に入り、皇道派若手将校と北一輝の橋渡しをした人物でした。
彼ら二人をかねてから危険視していた「統制派」は、この事件を契機に、このような人物まで排除したのでした。
こうして、陸軍では「統制派」が実権を握るようになります。
そして、陸軍は、政府の要人や官僚との折衝などにおいて、第二の二・二六事件をほのめかすなどで政治的な圧力を高めていきました。
このような形で政治介入をしていった軍部は、日中戦争を開始し、第二次世界大戦へと流れていくのでした。