永禄十(一五六七)年、織田信長が三十四歳のとき、美濃国を支配し、この地を岐阜と改めて、そこに拠点を遷します。
そして、「天下布武(新たに実力を蓄えた武士が、古い秩序や権威に頼る貴族に代わって天下を治める)」という理念のもと、天下に覇を唱えるために、京の都へ上ることを目指しました。
今回は、織田信長が、天下布武を唱えてからの、浅井・朝倉との戦いについて、ご案内します。
目次
★織田信長は浅井長政と同盟を結ぶ
信長は、本拠の岐阜と京の間に強固な基盤を築いていた戦国大名・浅井長政との間で同盟を結ぶことに成功しました。
そして、信長の妹にして、「近国無双の美人」と讃えられたお市を、浅井家に嫁がせました。
これにより、長政を味方につけた信長は、永禄十一(一五六八)年、敵対勢力を蹴散らして上洛を果たします。
京都に入った信長は、諸国の武士に、天皇や将軍に挨拶をするために京に馳せ参じよと命じました。
それは実質的に信長に従えというに等しいものでしたが、信長の力を恐れ、多くの大名が京の都に集まりました。
★織田信長の命令に従わない朝倉義景
ところが、越前の国(今の福井県)を支配する朝倉義景は従いませんでした。
この信長の命令に対して、朝倉家の家臣たちは「朝倉家は、代々、大国を預かってきた由緒ある家柄である。成り上がりの信長如きに従う必要があろうか」と異を唱え、義景は信長の命令を無視したのでした。
しかし、それは信長にとって思う壺でした。
朝倉が、天皇・将軍のためにという命令を無視したからには逆賊として討伐するという口実ができたことになります。
信長は秘かに朝倉攻撃の準備を始めます。
その軍議の席上で、信長の家臣が懸念を漏らします。
「今度の朝倉攻めの儀は、一言、浅井長政にも伝えておいたほうがよいのでは」
隣国であるがゆえ、朝倉家と浅井家は同盟を結んでいたからです。
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しかし信長は、自分と長政は親類であり、朝倉と浅井は元々他人である。
別に知らせる必要はない、と一蹴しました。
★織田信長に反旗を翻す浅井長政
永禄十三(一五七〇)年四月二十日、信長は三万の軍勢を率い、越前に侵攻します。
先陣を務めるのは木下秀吉と、信長の若き盟友・徳川家康でした。
この戦いでは、信長軍の奇襲が成功し、不意を打たれた朝倉勢は壊滅します。
そして、一気に朝倉の本拠に迫ろうとしていた矢先に、思いがけない知らせが信長の陣にもたらされたのでした。
浅井長政が朝倉方について信長に反旗を翻したというのです。
信長の伝記「信長公記」にはこの時の信長の「虚説たるべき」という言葉が記されています。
嘘であろう、まさか、あのお市を嫁がせた長政が裏切るとは、その時の信長の本心だったと思われます。
★浅井家で軍議がはじまり織田信長との同盟を解消
一方で、浅井家にとって、信長の朝倉家攻めは青天の霹靂でした。
これからどうするのか、黙って信長に従っていくのか、浅井家の軍議は紛糾しました。
一方で、信長は、支配下においた近江の南半分の地域に、安土を中心とした強力な支配体制を打ち立てようとしていました。
それは、近江の北半分を領有し、ゆくゆくは近江の南半分も支配することを目指していた浅井家にとっては、先行きの望みを絶たれたことでもありました。
このため、長政の父・久政は、浅井と朝倉のよしみを強調し、信長打倒を強硬に主張しました。
その間ずっと黙っていた長政がやがてロを開きました。
「信長を討ってとるべし」
長政のその決断は、長政の妻・お市にとって、非常に酷なものでした。
戦国時代、嫁ぎ先と実家が戦争を起こした場合、妻は人質として処刑される場合もありました。
しかし長政は、お市に手を下そうとはしませんでした。
政略結婚で結ばれたとはいえ、長政はお市を本当に愛するようになっていたのです。
★浅井長政が織田信長を裏切る
浅井が朝倉に味方することになり、遠く本国を離れて遠征している信長の大軍は、補給路を断たれて孤立した状態となり、袋の鼠となったのも同然でした。
浅井長政も、今ならば信長を討てる、そう確信しての行動だったと思われます。
しかし、ここで信長は、素早く行動を起こします。
「是非に及ばず」信長は、この一言だけを残して忽然と姿を消してしまったのです。
朝倉軍は、取り残された織田軍に逆襲を開始します。
しかし、木下秀吉、徳川家康、明智光秀は、必死で敵の追撃をかわし、なんとか撤退の道を切り開きつつありました。
そして、何とか生き延びた信長は、戦場から姿を消して二日後、突然に京の都に姿を現します。
信長は、越前からの決死の逃避行などなかったかのような態度を見せつけた上で、再び少数の護衛を引き連れ、山道をたどって岐阜へと舞い戻ったのでした。
こうして信長は、京の都で自分の健在ぶりを見せつけたて、長政討伐の大号令を発し、軍勢を招集します。
信長は、こうして越前で袋の鼠となり絶体絶命の窮地に陥ってから、わずか五十日後、信長は二万余の軍勢を率いて岐阜を出陣、長政の領国へと向かったのでした。
★織田信長が浅井長政への復讐を始める
元亀元(一五七〇)年六月十九日、信長は近江に攻め込み、長政の居城・小谷城に迫ります。
浅井軍は、城の中に立て籠り、織田軍の攻撃を迎え撃つ構えを見せていました。
この城を無理に攻めれば、戦いは長期化する上に、織田軍は相当の損害を覚悟しなければならないのは明らかでした。
しかも城内には、妹のお市がいます。
六月二十一日、信長は小谷成の城下町に火を放たせます。
これに対して、長政はいきりたち、「直ちに出陣」とロにしますが、家臣たちは長政を制止します。今しばらく待てば、越前から朝倉美景の援軍が到着するはずだからというのでした。
けれども、信長は次の手を打ちます。小谷成の向かい側にある横山城を取り囲んだのです。
横山城から小谷城へは、なんとか助けてほしいという使者がやってきます。事ここに至って、もう長政は待てませんでした。
浅井長政はついに出陣し、軍勢を大衣山へと移します。
そして六月二十六日、長政が待ちに待った朝倉軍が到着します。
けれども、長政は惇然とします。朝倉軍の総大将は、当主の義景ではなく、いとこの景健だったのでした。
長政は、信長を裏切ってまで朝倉に味方をしました。けれども、この浅井家の一大事に義景自身が出てこず代理の者をよこすというのは、どういう了見なのでしょうか。
また一方で、その頃、横山城を囲んでいた信長の陣にも援軍が到着していました。
三河から駆けつけた徳川家康です。
そして、二十七日夜、両軍は決戦の地、姉川へ向けて布陣を開始します。
織田・徳川連合軍と、浅井・朝倉同盟軍は、運命の川・姉川を挟んで向かいあうことになりました。
★姉川の合戦が始まる
元亀元年六月二十八日早朝、朝もやたなびく姉川の両岸は、おびただしい軍勢で埋め尽くされました。
川の南には織田・徳川連合軍が陣取り、北には浅井・朝倉同盟軍が陣取ります。
この合戦は、功をあせる徳川軍の突撃から始まりました。
五千の軍勢が、姉川を渡っていき、八干の朝倉軍に突撃を開始します。
それを横目に見た浅井軍は、織田軍に向けて突進しました。
浅井軍の戦意は旺盛でした。負ければ後がありません。このため、浅井軍は織田軍の懐深く入り込んでいきました。
しかし、これは信長の作戦でした。この時を待っていたとばかりに、信長の軍配が高くあがり、おもむろに振りおろされました。
この号令一下、信長軍の三干の兵は、浅井軍の側面に突撃し、戦いの情勢に大逆転が生じました。
この状況に、朝倉軍は戦意を喪失して退却を開始しはじめます。
このまま、左翼から織田軍が、右翼からは徳川軍が、包囲殺到する形となって、浅井・朝倉軍は壊滅してしまい、ついに敗走しました。
★小谷城の戦い
元亀三(一五七二)年、信長は浅井長政が立て籠った小谷城攻撃を再開します。
この織田軍の攻撃の再開の連絡を受けて、朝倉義景が応援に駆けつけ、織田軍に戦いを挑みますが、敗北してしまいます。
そして、越前一乗谷まで敗走したところで、ついに自刃したのでした。
さらに、取って返した織田軍は、天正元(一五七三)年八月、再び小谷城の攻略を始めます。
そして、小谷城落城と共に長政は自害して果てました。
その小谷城の戦いの翌年の正月、信長が催した宴席の場に侍った武将たちは息を呑みました。
その場に晒された黄金のしゃれこうべ。
それは、浅井長政、父・久政、朝倉義景の頭骸骨でした。
信長は、何と、相手が死亡しても浅井家、朝倉家を許していなかったのでした。
★その後の信長の戦い
信長の生涯は、果てしない戦いの日々でした。
信長は、自身の理想の実現のためには一切の容赦をしないそのやり方は、味方の家臣団にも多くの脱落者を出し、信長を裏切る者が相次ぐようになってきます。
例えば、松永弾正、荒木村重、そして、明智光秀などです。
そして、この中で、明智光秀が、天正十(一五八二)年六月、本能寺の変を起こします。
信長は、本能寺で光秀の軍勢に囲まれ、死を覚悟します。
そして、この時、信長が発した最期の言葉、 それは、奇しくも、浅井長政の裏切りを知った時に発したものとそっくり同じ、「是非に及ばず」でした。
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