徳川家康は、「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」と言われるとおり我慢強い人物だと言われています。
そして、家康の性格を忍耐強く鍛えられたという出来事としてあげられることが2つあります。
一つ目が、少年時代の今川氏での人質としての生活です。
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そして、二つ目が、織田信長の命によって正室・築山殿と嫡男・徳川信康を死に追いやったいわゆる「築山殿事件」です。
この築山殿事件は、「家康生涯最大の痛恨事」と言われています。
そして、通説としては、信長と家康の間に結ばれた「清須同盟」が対等の同盟でなく、信長を主とし、家康を従とする主従関係に近い同盟だったので、信長の命に逆らうわけにいかず、妻と息子を殺さざるをえなかったというものです。
しかし、一部の説によると、この事件は、信長の命令ではなく、家康の意志で命を奪ったとする説もあり、史実としてはよく分からないところです。
今回は、その通説を覆す「家康の意志で命を奪った説」を御案内していきます。
目次
★「築山殿事件」の通説
まずは、築山殿事件の内容について、通説とされているものを御案内します。
事件の発端は、信長の娘で徳川信康に嫁いでいた徳姫(お五徳)が、自分と夫・信康、姑・築山殿との間が不仲であることと、信康と築山殿の不行跡を十二ヵ条にまとめて、父・信長に訴え出たことによります。
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この実の娘からの訴えに驚いた信長は、早速、家康の家老・酒井忠次を呼び寄せ、十二ヵ条が事実かどうか詰問しましたが、そのとき酒井忠次は、十ヵ条まで弁解することができませんでした。
しかも、その十二ヵ条の中には、信康と築山殿がひそかに武田勝頼と内通しているということも含まれており、信長は家康に対し、信康と築山殿の殺害を命じました。
このとき信康は二十一歳で、将来を嘱望されていた青年でした。
そして、この信長の命令の背景には、信長が、徳川信康と自分の子・織田信忠を比較し、信康の方が明らかに出来がよかったので、将来、主従の順序が逆転することを心配し、二人を殺したとする説もありました。
その後、信長の性格から、家康としてはその命に逆らうことができず、まず信康を岡崎城から三河国大浜、さらに遠江国の堀江城、そして二俣城に移し、大久保忠世に預けました。
どうして、この時に、家康が信康の居所を転々と移したかについては、「信康がうまく逃げてくれればよいが」と期待していたとする説もあります。
そして、結局、築山殿が浜松に近い富塚というところで殺され、その後、信康が二俣城で自刃したのでした。
★歴史は勝者によって作られるもの
以上が、徳川方史料、たとえぼ「徳川実紀」、「松平記」、「三河物語」、「改正三河後風土記」などに記されている内容を大まかにまとめたものであるが、いかにも徳川方史料らしく、信康と築山殿が疑われてしかるべき点と、信長の残忍な性格を描き、「だから二人は殺されたのだ」と、家康を擁護する、家康に同情するような描き方になっています。
しかし、これは、後の世になって勝者が書いた勝者の歴史なので、「家康には罪はない」、「家康は犠牲者だ」ということを強調するための説明も多分に入っていると考えていいかと思われます。
というのは、同じ徳川方史料の中でも、信瀕性が高いことで知られている「当代記」にはややちがった書き方がされているのです。
この「当代記」には、二人を殺害するよう信長からの命令があったわけではなく、信長からは「家康存分次第」と言われただけだったとされていたのでした。
であれば、どうして家康は、かわいい自身の息子と、自分の正室の命を奪うようなことをしたのでしょうか?
★徳川信康と築山殿の命を奪う理由はあるのか
もちろん、「当代記」の内容が全て正しいとは限らず、また、信長が言ったという「家康存分次第」の裏の意味が「分かっているだろうな。」という信長からのプレッシャーがあったかどうかは分かりません。
しかし、このは、信長が2人の殺害命令を出していない可能性も十分に考えられるのです。
仮に、従来からの通説である、信長が「信康と築山殿の二人を殺せ」と命じたのではなく、その処分は家康にゆだねられていたとすれば、どうして家康は信康と築山殿の命を奪うことになったのでしょうか。
★徳川信康と築山殿は徳川家康に隠し事をしていた?
息子と正室の二人の処分をゆだねられていた家康が、本当に自身の判断で二人の命を奪うという結論に至ったというのであれば、それは、本当に敵方と通じていた、あるいは、かなり疑わしかったと考えることができるかも知れません。
築山殿は今川義元の姪であり、今川義元が桶狭間で信長に討たれたあと、夫である家康は、叔父の仇である信長と同盟を結び今川家を裏切った形となっていました。
このことが、ヒステリーな性格の築山殿を更にイライラさせます。
このため、家康との夫婦間は冷めていて、家康は居城を浜松としますが同居せず、信康の居城・岡崎城近くの築山に建てた屋敷で今川氏時代を懐かしむような室町風の暮らしをしていました。
そして、浜松城で家康は側室お万の方に二男於義丸(のちの秀康)を生ませている様子をみて、築山殿のイライラはますますエスカレートしていくのでした。
そうした築山殿から生まれ、しかも近くに暮らしている信康は、どちらかといえば母親びいきになっていたことも考えられます。
その中で、築山殿が、何らかの形で武田方と通じていた、或いは悪気はなく結果として武田方に情報を漏らすようなことをしていた、という事実があり、それを息子・信康が黙認していたなどのことがあれば、二人の殺害はやむを得ないかもしれません。
その場合、これを放置してしまうと、家臣団に対する示しがつかず、家康が命を奪うことになってもやむを得ないものと思われます。
現在となっては、史料から推測できるものは、こういったところですが、今後、新しい史料の発見によって、違った事実が確認されるかもしれませんね。