戦国時代の悲運の女性の代表のように例えられている信長の妹・お市の方ですが、ご承知のとおり彼女には三人の娘がいました。
茶々、お初、お江の三姉妹です。
この中で、最も恵まれた生涯を送ったのは、お江だと言われています。
・二代将軍秀忠の奥方として、江戸城の最初の御台所
・三代将軍家光と、豊臣秀頼の妻・干姫の生母
・長女・和子は後水尾天皇の中宮になり、産んだ内親王は明正女帝として即位し天皇の祖母
このように、彼女の栄誉を並べると、その恵まれた生涯が分かります。
しかし、彼女の性格は、何でも自分が中心にならないと気に入らなかった茶々とは違い、その場、その場で与えられたことを一生懸命にやった結果だと思われます。
それでは、今回は、その彼女生涯をご紹介します。
★お江の生い立ち
お江の名前は、歴史資料上では一定しません。
小督と記載されたものもあれば、お江与とされているものをあります。
また、譚を達子といい、法号を崇源院と称しました。
こうした多くの名前は、彼女の人生が複雑で、かつ尊ばれて亡くなったことを物語っています。
有名な話ですが、お江は、幼くして孤児になりました。
小谷城落城で父・浅井長政は自刃して果てましたが、お江は、その直前に生まれましたので、父親というものを知らずに育ちました。
そして、10歳のときに母・お市の方が柴田勝家と再婚をしたので、3姉妹ともに北陸の北ノ庄城に移り住みます。
しかし、翌年には、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家は敗れて、母・お市の方を北ノ庄城で失いました。
この時、お江は、母がいる北ノ庄城の天守が仕掛けた爆薬により吹き飛ぶのを、二人の姉である茶々、お初と泣きながら見届けました。
その後は、三姉妹ともに、その戦いの敵将だった豊臣秀吉に引き取られます。
そして、この秀吉に、お江の人生は翻弄されるのでした。
★お江の最初の結婚
秀吉は、三姉妹の末っ子であるお江を最初に嫁がせました。
それは、秀吉に引き取られて、間もなくのことでした。
相手は、尾張大野城(愛知県常滑市)六万石の佐治与九郎一成でした。
お江とは、母親同士が異母姉妹に当たり、従兄妹同士の結婚でした。
この婚姻は、秀吉は嫁ぎ先に気配りして、それなりのやさしさを示したとも言えるものでした。
ところが翌年、秀吉は小牧・長久手の戦いで、徳川家康と敵対します。
この戦いで、秀吉が佐屋川の船路を絶ったため、家康が渡河できず困っているのを知った一成は、大野から船を出して救援しました。
これに対して、秀吉は激怒しました。
しかし、秀吉は、直ぐには一成を処罰せず、2年後に佐治家を潰しにかかります。
まず、お江には、茶々が重病なので大坂城に見舞いに来るよう仕向けました。
お江が急ぎ駆けつけると茶々はピンピンしています。
秀吉は、お江に対して、帰宅はならぬと大坂城に留め置き、お江の意思などおかまいなしに、強引に離縁させました。
そして、一成の居住・大野城を攻めて六万石の領地を没収しました。
★お江の2回目の結婚
次に、お江は18歳で、丹波亀山城(京都府亀岡市)の城主となった羽柴小吉秀勝と再婚します。
秀勝は、秀吉の姉の二男(長男は関白秀次)でした。
この結婚は、秀吉が茶々を側室とし、鶴松が誕生したことと無縁ではありませんでした。
待望の跡継ぎを得た秀吉は、鶴松の叔父叔母にあたる秀勝・お江夫妻が後ろ盾になってくれることを願ったのでした。
しかし、残念ながら、鶴松が3歳で他界し、朝鮮に出兵した秀勝も、異国の水があわず陣没しまいました。
このとき、お江は、まだ二十歳でした。しかし、秀勝との間に一女をもうけており、その娘を連れて、再び大坂城に戻ったのでした。
★お江の3回目の結婚
次の結婚相手は、家康の嫡男・秀忠でした。
文禄四年(1595年)九月、豪華な婚礼が伏見城で執り行われました。
お江は秀勝との間に生まれた娘を連れて行きたいと願いましたが、秀吉は許さず、淀殿が預かりました。
この娘は後に淀殿の手によって、公家の九条忠栄に嫁いでいきました。
一方で、この秀忠との婚姻には、秀吉の考えがあってのことでした。
この婚姻の少し前に、淀殿が懐妊し、秀頼が生まれます。
このため、秀吉は、「そなたに女のやや児が生まれたら、秀頼にめとらせようぞ」と言って嫁に出したそうです。
当時、豊臣家の家臣団で実カ№1の家康を取り込むため、秀吉は淀殿と一緒になり、政略結婚を画策してお江を使ったのでした。。
なお、この結婚の時は、お江は23歳、一方の秀忠は六つ年下の17歳でした。
そして、結婚二年で干姫が生まれました。
その翌年、秀吉は干姫を秀頼の妻にせよと家康に命じて亡くなります。
お江は徳川家に嫁いでもなお、秀吉・淀殿の操り人形でしかありませんでした。
★お江の運命も関ヶ原の戦い後に好転
しかし、関ケ原戦いで家康が勝利したことで、お江の運命は大きく変わりました。
家康が天下の覇権を握ったので、お江は、徳川家の嫡男・秀忠の正室として、江戸城の女主人になりました。
ここで、自分が何でも一番でなければ気が済まない姉・淀殿と実質的に立場が逆転します。
お江は、その風貌が段々と亡き母・お市の方を思わせ、落ち着いた雰囲気が艶やかと言われました。
そして、秀忠との間に、二男、五女をもうけました。
三家に嫁ぎ、8人の子を産むことによって、お江の腹は据わりました。
彼女は元々は気の強い女ではありませんでしたが、秀忠の性格と六つも年下だったこともあり、完全に尻に敷いていました。
さらに、徳川家の跡継ぎを産んでいくことで、お江は自ずから風格が備わってきました。
しかし、嫡子・家光は乳母の春日局が養育し、自らが育てた二男の忠長を溺愛し、禍根を残しましたが、それでも世継ぎ家光の生母として、お江の地位は揺るぎないものでした。
このように、姉・淀殿が熱望した地位を、妹・お江は秀吉と淀殿にもてあそばれているうちに、望まずして得ることになりました。