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★柴田勝家とその妻 お市の方の悲しい最後
柴田勝家は、信長亡き後、筆頭家老として織田家を守るという使命感がありました。
このため、織田家と親族関係を結ぼうと、信長の妹であるお市の方と結婚をします。
この時、勝家が62歳、お市の方が36歳と親子ほどの年の差がありました。
しかし、勝家は、羽柴秀吉との賤ヶ岳の戦いで敗れてしまい、自分の城である北ノ庄城での自害を覚悟します。
そして、妻であるお市の方にも、そのことを告げるとともに、お市の方が信長の妹であるがゆえ、秀吉も助けるはずなので、逃げるように説得します。
しかし、お市の方は、娘3人には逃げるように指示しますが、自分はここで勝家と自害すると言って聞きません。
結局、勝家が折れ、お市の方は、結婚後、わずか1年で勝家と一緒に北ノ庄城で自害することになってしまいました。
戦国の世では、よくある話ではありますが、悲しい話ですね。
ちなみに、お市の方は、浅井長政との一度目の結婚でも、小谷城で、同じく当時信長の部下であった秀吉に城を落とされ、夫を失っています。
その時も、自分も城に残ると言い張ったのですが、当時幼かった娘3人を誰が育てるのかと長政に説得され、涙を呑んで娘とともに城から解放されたそうです。
一方の勝家、猪突猛進で鬼柴田と恐れられた猛者で知られていましたが、自分が秀吉に敗れてしまったがため、織田家から嫁入りしてきた絶世の美女と言われた妻を守れなかったのですから、さぞかし無念だったと思います。
それでは、どうしてこのような悲劇を迎えてしまったのか、その歴史を御紹介します。
★お市の方は戦国時代の美人
お市の方は、信長の妹で、戦国時代の絶世の美女と言われた女性でした。
信長が天下取りのため、様々な敵と戦争を繰り返していた頃、政略結婚で、北近江の浅井長政と政略結婚をします。
しかし、金ヶ崎の戦いの戦いで、信長が朝倉家に攻撃を仕掛けていた時、背後から浅井家の攻撃を受けるという裏切りにあい、信長は命からがら逃げ帰ります。
後日、体制を立て直した信長は、姉川の戦いで浅井家の小谷城を攻め立て、これを落とします。
この際に、お市の方と娘3人は、浅井長政の配慮で、織田方に開放されたのでした。
★柴田勝家は戦上手で家臣からの信頼も厚い人物
柴田勝家と言えば、織田信長の家臣で、戦上手で有名です。そして、家臣からの信頼も厚い人物でした。
その秀でた武勇から鬼柴田と呼ばれ、戦場における突進力では随一という意味で「書かれ柴田」とも評されていました。
また、信長の父の代から織田家に仕え、信長が死亡した頃は筆頭家老の立場で、織田家の重鎮として信長からも信頼されていました。
★本能寺の変での織田信長の死
天下統一を目の前にしていた織田信長ですが、本能寺の変で明智光秀の謀反によって殺されてしまいます。
この知らせを知った羽柴秀吉は、中国で毛利軍との戦争中であったにもかかわらず、軍を京都に向け、裏切り者の明智光秀を討ち、信長の仇をとります。
一方の柴田勝家は、魚津城の戦いで上杉景勝との戦争中でしたが、明智光秀などいつでも討てる、今は信長から任された上杉家の討伐の方が先だと、直ぐには動きませんでした。
このことが、信長亡き後の織田家の今後を決めるための清州会議で、主君の仇を打ったという実績を持つ秀吉に話が有利に運ぶことになってしまうのでした。
結局、清州会議では、織田家の跡取りは、秀吉の推す信長の孫で当時2歳の三法師となり、秀吉が後見人となります。
「秀吉は織田家を乗っ取ってしまうのではないか。」そのように危惧した柴田勝家は、信長の妹であるお市の方を嫁に迎え入れ、親族となることによって織田家を守ろうとしました。
★勝家と秀吉の対立
日を追うごとに、勝家と秀吉の対立は決定的になっていきます。
先に動いたのは、秀吉でした。
まず、勝家の領土である長浜城を取り囲みます。
これは、勝家の養子であり城主の柴田勝豊と勝家が仲が悪いというところを利用して、寝返らせたものでした。
これに聞き、業を煮やす勝家、しかし、勝家は北陸であるため、冬の間は雪で動くことができず、春を待つしかありませんでした。
★賤ヶ岳の戦いで敗れた柴田勝家の最期
そして、雪が溶けるのを前に、勝家は進軍を始め、秀吉もこれに続き、両軍は賤ヶ岳で戦います。
ここで、巧みな戦術で勝利したのは秀吉でした。
敗れた勝家は、僅か100人の手勢とともに、北ノ庄城に戻ります。
そして、その夜、秀吉軍が城を周りを取り囲むなか、最後の宴会が行われました。
そこで、勝家は、お市の方に自分は明日自害する旨を伝えます。
しかし、お市の方にあっては、お市の方が信長の妹であるがゆえ、秀吉も助けるはずなので、逃げるように説得します。
けれども、お市の方は、娘3人には逃げるように指示しますが、自分はここで勝家と自害すると言って聞きません。
結局、勝家が折れ、お市の方は、結婚後、わずか1年で勝家と一緒に北ノ庄城で自害することになってしまいました。
そして、勝家の最後は、城の天主の最上の九重目に登り、妻子などを一刺しで殺して、みんなが静まりかえる中、「修理の腹の切り様を見て後学にせよ」と声高く言うと切腹した。
最後に、家臣が用意した火薬に火をつけ、亡きがらは天主とともにことごとく亡くなった、とあります。
鬼柴田の最後らしいですね。
★2人の辞世
ここで最後に、自害前に詠んだ二人の辞世を紹介します。
お市辞世
「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな」
(意訳)そうでなくても夏の夜は短いのに、ほととぎすが今生の別れを急かすようですね
勝家辞世
「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」
(意訳)夏の夜の夢のように儚い人生だった。山のほととぎすよ、せめて我が名を雲の上へ語り伝えてくれまいか