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★備中高松城城主・清水宗治の人物像
清水宗治は、備中の一豪族の出身で、当初は、備中清水城の城主でした。
しかし、その後の三村氏と毛利氏との一大決戦であった「備中兵乱」において、宗治は三村軍であったにもかかわらず、毛利軍に加担して勝利に貢献し、備中高松城の城主となったとされています。
一方、その後の宗治は猛将として知られており、毛利氏の家臣となってからは、毛利氏の中国平定に大いなる貢献をして、小早川隆景をはじめとする毛利氏の首脳からは厚く信頼を得ていた人物でした。
★備中高松城城主・清水宗治は羽柴秀吉からの誘いを拒否
一方、織田信長の天下統一の動きの中で、その家臣であった羽柴秀吉は中国地方を担当し、備中への進出を開始します。
秀吉が備中攻略のためのターゲットの中心に選んだのは、毛利方の首脳から信頼が厚く、猛将として知られる宗治の居城である備中高松城でした。
秀吉が備中高松城を選んだのは、宗治が猛将だったというだけでなく、毛利方が備中高松城をかなり気にかけており、ここを落城することで対毛利との戦いを有利に進めるためでした。
また、備中高松城が、中国地方の主要幹線である山陽道近くに位置していたことも関係していたと思われます。
しかし、秀吉は、いきなり武力攻撃を始めることはせず、得意の調略で、宗治に対して魅力的な話を持ちかけました。
ちなみに、このとき秀吉は、「味方をすれば、備中国を与えよう」と宗治に持ちかけたそうですが、猛将・宗治は誘いには乗ってきませんでした。
★毛利軍の防衛体制は「境目七城」強化策
備中高松城での戦いというと、大方の場合は、勝者である秀吉軍による築堤工事と水攻めだけがクローズ・アップされており、敗者である毛利輝元及び清水宗治側の戦略はほとんど取りあげられていません。
このため、特に、毛利氏においては、清水宗治を見捨てたかのように無為無策で、何らなす術もなく城を落とされていったかのようなイメージですらあります。
しかし、敗者である毛利氏の側も、決して無策であった訳ではなく、防衛体制を固めていました。
その防御態勢とは、毛利輝元によって、備中・備前の国境に築かれ、強化された「境目七城」の存在でした。
毛利輝元は、国境になる七つの城に防衛強化を施し、この「境目七城」を織田軍との戦いの生命線と考えていたのでした。
そして、具体的に、その7つの城とは次のとおりでした。
・宮路山城(岡山市足守)
・冠山城(岡山市下足守)
・高松城(岡山市高松)
・鴨城(岡山市加茂)
・日幡山城(倉敷市日畑)
・庭妹城(岡山市庭瀬)
・松島城(倉敷市松島)
しかし、このような毛利軍の防衛策も、時の勢いを得ている織田軍との気迫の違いのような差がありました。
そして、秀吉は、この「境目七城」に対して、備中高松城城主・宗治と同様に調略を始めます。
その結果、日幡山城を守っていた上原元将は、秀吉に内応してしまいました。
結局、七つの城のうち、寝返ってきたのは日幡山城の上原元将ただ一人でした。
そこで、秀吉は、備中高松城を中心として「境目七城」を一つひとつ落とす各個撃破へ作戦を切り換えていくのでした。
★清水宗治を援軍できなかった毛利軍の後詰戦法
秀吉は、まずは、「境目七城」のうち冠山城に攻撃を仕掛け、落城させます。
そして、次に、秀吉はメインターゲットとなる備中高松城への攻撃を始めました。
しかし、秀吉が一気に攻め落とそうとカ攻めをかけたところ、さすがに猛将・宗治の指揮を受けた兵は強く、抵抗を受けて、秀吉側に数百の犠牲者が出てしまいました。
このため、秀吉は、力攻めをあきらめることにし、さきの三木城の「干し殺し」、鳥取城の「渇え殺し」と同様、兵糧攻めを行う作戦へと切り替えました。
しかし、備中高松城のある位置の地形的なことを考慮すると水攻めが可能となるため、近くの足守川の水をせきとめ、城を孤立させる方法をとったのでした。
そして、その間にも、秀吉は「境目七条」を個別に攻撃し続け、次々と落城させていきます。
やがて、遂に残るのは、備中高松城が一つ残るだけとなりました。
一方、この時も毛利氏は何もしていなかった訳ではありません。
毛利輝元からの命令で、備中高松城の後詰として出てきていたのが「毛利両川」の二人、すなわち、吉川元春と小早川隆景が、ともに備中高松城のすぐ近くにいて、備中高松城を包囲する秀吉軍の後方に布陣していました。
これは、いわゆる「後詰戦法」で、城の中の味方と、城の外とで、城を攻めている敵をたたくというものですが、水びたしの状態で、城の中の兵は動くに動けず、そのため、後詰にきていた吉川元春・小早川隆景も何ら手出しができず、ただ、山の上で、なりゆきを見守るしかできませんでした。
こうした状態のまま何日かが推移しました。しかし、その間にも梅雨の影響もあり、水かさは増し、備中高松城の城兵も、吉川・小早川軍も次第に危機感を強めていきました。
そうした状況を見て、タイミング良しと判断した秀吉は、講和をもちかけています。
従来、この講和の話をもちかけたのを毛利輝元とする説が主流でしたが、講和締結直後、瀬戸内水軍の将村上元吉に宛てた毛利からの書状(「萩藩閥閲録」)に、「羽柴和平の儀申すの間、同心せしめ軸事に候。まずもつ先以て互いに引き退き候」とあるので、言い出したのは秀吉の方からだったと思われます。
★清水宗治のカッコイイ見事な切腹が、これ以降の武士の名誉の死となる
講和交渉の毛利方の全権を担ったのが安国寺恵墳でした。
具体的にどのような交渉が行われ、いかなる条件面の提示があったのかは諸説ありますが、交渉は難航し、数日が経過しました。
そして、そんな時に、秀吉の下に、京都の本能寺に宿泊していた織田信長が明智光秀に襲われ、殺されたという、あの本能寺の変の第一報が届けられたのでした。
この場合、信長の死が毛利方に知られれば、攻守逆転することは明らかなので、秀吉は、すぐ毛利の使僧・安国寺恵填を呼び、信長の死は隠したまま、それまでの条件を大幅に緩和し、講和交渉を成立させたのでした。
夜が明けて翌日、秀吉方から森高政が人質として毛利方の陣営に送られ、代わりに毛利方からは小早川秀包に桂広繁が添えられて秀吉のもとに送りこまれてきた。
そして正午すぎ、宗治が、城攻めをしている秀吉の陣所近くまで舟を漕ぎだし、舟の上で切腹して果てたのでした。
この宗治の切腹は、潔く腹を切り、介錯人に首を刎ねさせたもので、見事であった事から、以降、武士の切腹作法は名誉ある死として定着する事になりました。
★毛利軍が秀吉を追撃しなかった理由は?
毛利方が信長の死を知ったのはその直後だったと言われています。
戦国時代の講和として、講和の際に交わした誓書などはすぐ破られたりすることが多く、秀吉としても不安はあったと思われますが、「すぐ畿内にもどらなければ」という焦りの気持ちがあり、反対に直ぐに動けば毛利方からの追撃を受ける恐れがあり、しばらく静観するしかありませんでした。
一方、そのころの毛利陣営内では、吉川元春と小早川隆景とで、意見対立があったと言われています。
「信長が死んだとわかった以上、講和を破棄して秀吉を攻めよう」という吉川元春と、「誓書を取りかわし、その墨がかわかない内に講和を破棄するわけにはいかない」と主張する小早川隆景との間で激しいやり取りがありました。
そして、最終的な判断は毛利輝元が下したと思われますが、毛利軍は秀吉を追わず、兵を引くことになり、元春・隆景も陣所を撤去し、引きあげていったのでした。
秀吉は、毛利軍が引きあげていくのを確かめた後、畿内へ向けて兵を戻し始めました。
これがいわゆる「中国大返し」です。
一方、毛利輝元が、秀吉の追撃をしないと決断したはっきりとした理由は史料が残っていないため、想像の域をでません。
しかし、毛利氏には、輝元にとっては祖父にあたる元就の遺言があり、元就は長男の隆元、二男の元春、三男の隆景らに、「天下をねらうな」といっていたことが「吉川家文書」に記述されています。
信長の死をきっかけに、秀吉を追って上洛すれば、当然、毛利氏が天下の争いごとに巻きこまれることを覚悟しなければならなくなります。
毛利輝元は、それは祖父の遺言に反することになると考えたのかも知れません。