戦国時代の出来事の中で、最も多くの人の運命を変えた事件が、本能寺の変だと言えます。
しかしながら、明智光秀がどうして、この様な謀反を起こしたのかという明確な理由は、諸説あるものの、確かな文献等が見つかっておらず、今だに不明なままです。
ただ、本能寺の変の通説としては、①織田信長は自害に追い込まれた、②明智光秀は豊臣秀吉との山崎の戦いに敗れて死亡した、という二点だと思われますが、このうちの二点目を覆す説があります。
それは、明智光秀は、『山崎の戦いでは死亡せず、東に逃れて徳川家康に仕えていた。』というものです。
今回は、この明智光秀の生き延び説についてご案内します。
★明智光秀は僧侶となっていた
徳川家康の配下に、天海という天台宗の僧侶がいました。
この僧侶の経歴は、会津に生まれ、元亀二年(1571年)、織田信長が比叡山・延暦寺を焼き討ち後に、武田信玄のもとに逃れ、武田家滅亡後、家康に招かれて駿河(現・静岡県)に移り、家康,秀忠・家光の三代将軍に仕えて108歳まで生きたとされています。
この経歴が、一般的な天海の経歴とされていますが、一方で天海自身が自分の経歴を余り語ることがなかったとされており、様々な異説があります。
そして、その異説の中の一つに「明智光秀=天海」説というものがあり、以外その根拠について記載します。
★「関ケ原の戦い」で小早川秀秋の裏切りを画策した
実は、この天海という僧侶、ただの僧侶ではありませんでした。
言動、能力にも、僧侶離れしたものがありました。
そして、その中の一つに、関ケ原の戦いでの小早川秀秋への裏切りの画策というものがあります。
関ヶ原の戦いは、西軍の小早川秀秋の裏切りにより東軍が勝利しますが、この裏切りの画策を天海が行ったというものです。
そして、その方法は、小早川秀秋の家臣・稲葉正成と手を組んで、秀秋の感触を計りつつ、裏切りを誘ったとされていますが、この稲葉正成は、実は明智光秀の親戚に当たるのでした。
つまり、天海となった光秀が、親戚のものと手を組んで、反豊臣に動いたというものなのです。
★徳川家が天海を大切にする理由
この他にも、次のような理由もあります。
江戸幕府初期において、徳川家が大切にする人物が二人います。
一人が天海、もう一人が春日局です。
春日局という女性は、光秀の甥の娘に当たり、三代将軍・家光の乳母として、大奥での発言力は強いものがありました。
特に、三代将軍・家光の実母・お江与の方が亡くなった後は、大奥の公務を差配するなど、大きな権力を持つに至りました。
そして、この春日局の活躍の背後には、親戚に当たる光秀(天海)がいたのではないかと考えられているのです。
また、天海も三代将軍・家光に仕え、寛永二年(1625年)には寛永寺を建てたほか、さらに江戸の都市計画にもかかわるなど幕府の権力の中枢で活躍しています。
つまり、天海と春日局は、お互いがお互いをサポートして、江戸幕府内での発言力を高めていったのでないかと言われているのです。
なお、補足ですが、光秀は信長に仕えていた頃、築城や町づくりなどの土木建築業をとても得意としていましたので、江戸の都市計画は、彼にはうってつけの仕事だと思われます。
そして、天海は、寛永20年(1643年)、百八歳で没します。
さらに、天海は、死亡した数年後には朝廷より慈眼大師号を追贈されています。
これは、とても名誉なことです。
この名誉にも、光秀が信長に仕えていた頃に朝廷宮中を担当していたことと大いに関係しているのではないかと言われてます。
さらに、春日局の江戸幕府内での発言力によって、三代将軍・家光に朝廷からの追贈の推薦・進言を図ったということも十分に考えられるのです。
そして、更に、光秀の木像と位牌がある京都・慈眼寺の寺号と、天海の誼号「慈眼大師」は同じ「慈眼」がつきます。
これは、ただの偶然なのでしょうか?
★最後に
以上が、天海が明智光秀だったのかという説の理由の概要です。
いずれの理由も、確固たるものでひなく、明確な結論が出ているわけではありませんが、もしも本当に天海と光秀が同一人物だとしても、全然不思議ではないと思われます。
歴史というものは、新たな文献などの発見により変化していきます。
今後の展開に注目したいところです。