徳川家康の家臣に天野三郎兵衛康景という家臣がいました。
最高石高が一万石で、いちおう大名にはなりましたが、家康の数多くいる家臣団の中ではそう目立った存在とも言えませんでした。
しかし、この天野康景は、家臣の足軽を処罰するので差し出せという家康の命令に最後まで争います。
そして、とうとう足軽を処罰するなら大名の地位は要らないと言って姿を消すのでした。
今回は、この天野康景のお話をご案内します。
目次
★「どっちへんなしの天野三兵」
天野康景は、通称の三郎兵衛がよく知られています。
天文六年(1537年)の生まれなので、家康より五歳年長ということになりますが、家康がまだ松平竹千代といって今川義元の「人質」として駿府に抑留されていたときにもそれに従っていました。
そして、家康が三河一国の平定に成功したとき、三河の庶政を担当する奉行に任命されました。
この奉行が一人ではなく、同じポストに三人同時に任命されたことから、これを「三河三奉行」と呼んでいます。
そして、当時の俚謡に、「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三兵」と歌われていました。
これは、仏のように慈悲深かったという高力清長、怒ると鬼のように怖かったという本多作左衛門重次、そして、天野三兵が天野三郎兵衛のことで康景をさしている。
この「どちへんなし」については、「仏でもない、鬼でもない。どちらでもない中くらいの」という意味で解釈する説と、「どちらにも贔屓しない」という意味で解釈する説の二つがあります。
★天野康景も大名の仲間入りを果たす
そして、もちろん、家康の戦いにもほとんど従軍し、それなりの武功もあげています。
しかし、どちらかといえば武功派タイプではなく、吏僚派タイプだったと思われます。
このため、家康が、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃を支配した「家康の五力国時代」、七ヵ条の定書や検地などに際し、奉行として活躍していることからも明らかです。
そのため、本多忠勝・榊原康政・井伊直政ら武功派武将にくらべて出世は遅く、関ケ原合戦後の慶長六年(1601年)、はじめて一万石を与えられ、大名の仲間入りができました。
大名として入った場所は、駿河の興国寺城でした。
この城は、かつて、北条早雲によって築かれ、早雲が伊豆に攻め込んでいったときの城で、俗に「早雲旗上げの城」として有名でした。
その後、一時、武田氏が占領したりしていますが、天正十八年(1590年)、家康が関東に転封されてからは、駿府城主として入ってきた中村一氏の弟一栄が城主として入城していました。
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★本当は盗人を追っ払っただけなのに
興国寺城に入った天野康景はそれまでの戦国の城を近世の城につくりかえるための大がかりな工事をはじめるため、領内から築城資材を集めていました。
ところが、慶長十二年(1607年)、その蓄えていた築城資材が何者かによって盗まれるという事件が頻発するようになったのでした。
そこで康景は警戒を厳重にしていたところ、隣の天領の百姓たちが盗みに入っていることが判明しました。
そして、あるとき、盗みに人った百姓を、康景の足軽の一人が捕えようとしたところ、抵抗したため、その足軽は、差していた刀で斬りつけました。
それで収まれば問題はなかったのですが、何とこの斬りつけられて怪我をした百姓が代官の井出甚助に、自分が盗みに入ったことは棚にあげ、「私は、興国寺城の天野康景に斬られました」と訴えたことから大ごとになった。
代官の井出甚助はその百姓が「天野康景の足軽と喧嘩をして斬りつけられました」というのを信じ、「勝手に百姓を斬るというのはその罪軽くない。すみやかに足軽を差し出せ」といってきたのでした。
★家康には百姓を斬りつけた足軽として耳に入る
これに対して康景は、「盗みに入った者を追っ払っただけだ」と取り合いませんでした。
すると、井出甚助がそのことを家康に訴え出てしまいまして。
天領の百姓は家康に直属する形だったからでした。
これを聞いた家康はこのことを重くみます。
その理由は、この事件の四年前の慶長八年(1603年)三月二十七日付で七ヵ条の「定書」を出しており、その七条目に、
一、百姓むざところし候事御停止也。たとひ科ありとも、からめ取、奉行所にをいて対決の上申し付けらるべき事。
と書かれていたからでした。
この「定書」は、家康がその年二月十二日に征夷大将軍に補任され、幕府を開き、幕府が発した第一号の法令でもありました。
そして、家康は幕府法を徹底化させるため、この事件を一つのきっかけにしようと考えたのでした。
★天野康景は家康に争って大名の地位を捨てる
このため、家康から康景に対して「斬りつけた足軽を差し出せ」といってきます。
しかし、康景のそれに対する答えは前と同じでした。
「足軽には罪はない。もし罰するというなら、私を罰してほしい」と、あくまで足軽をかぼい通しているのでした。
このため、やむを得ず家康はこのあと、腹心の本多正純を康景のもとに遣わし説得を試みましたが、康景の決心は変わりませんでした。
そのあとも再三に渡り「足軽を差し出せ」と矢の催促があったが、康景は無視し続けたのでした。
さらに、それでもなおも差し出しを求める幕府に抗議した上で、康景本人が大名の地位を捨て、城を出てしまったのでした。
「徳川除封録」巻二によると慶長十二、行方知れずとなった康景は箱根山中に身を隠していたと記述されています。
箱根は小田原藩領で、そのころの小田原城主は大久保忠隣でした。
康景と親しかった忠隣は、康景を、幕府法徹底のための犠牲者と思っており、小田原城外の沼田というところの西念寺に住まわせていたのでした。
康景は西念寺で余生を送り、慶長十八年(1613年)二月二十四日、その西念寺で没しています。
★新井白石も賞賛した天野康景
こういった気骨ある戦国武士的な生き方は、江戸時代には稀少価値になってしまったものであろう。
あの新井白石が「藩翰譜」の中で天野康景のこの一件を取りあげて、「上にしては公の政を害せず。下には私の恩を傷らず。一人の罪あらざるを殺さじとて、万石の禄を捨つるをももの数ともせず、独その志を行ひ、其の義を直くす。此の世には有がたき賢人なり」と最大限の賛辞を送っています。