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★戦国時代の最大の成功者にして戦上手の徳川家康
徳川家康というと、江戸幕府260年という時代の礎を作るなど、偉大な実績をあるにもかかわらず、意外と人気は乏しく嫌われ者になることが多いのが事実です。
また、戦争にも滅法強く、長久手の戦いでは、豊臣秀吉ですら負けない戦を展開し、その存在感を示し、結局、秀吉は家康を傘下に入れるため、自分の妹を家康に嫁に出すことによって、上洛を促しました。
このような実績のある家康ですが、我々現代人には余り人気がないもの事実です。
それでは、なぜ戦国武将の最大の成功者であるはずの家康は、後世の我々にとって余り人気がないのでしょうか。
またどうして、現代に放送されるテレビドラマでも、家康は主人公の敵方となり、憎まれ役になることが多いのでしょうか。
その理由を解明するため、今回は家康のキャラクター・性格について、調べてみたいと思います。
★家康の性格で最も特徴的な我慢強い性格
家康は、幼少期の頃に、今川家、織田家への人質など、常に耐え忍ぶ生活を強いられていました。
そして、成人して大名として独立し、織田信長と同盟を結びますが、同盟というよりも、ほとんど家来に近いような処遇でした。
家康は信長の要請で援軍として戦うことは多々あったのですが、反対に信長に援軍を頼んだ時にはなかなか援軍を派遣してくれなかったりと、かなりの苦労を伴う同盟だったようです
この同盟は、家康でなければ、成立しなかったのではないでしょうか。
ですが、この時代、仮に家康が信長に敵対してしまった場合、信長から猛攻を受けるが明らかなので、恐らく家康には信長に従うという選択肢しかなかったようにも思います。
ただ、家康は人間性として律儀で義理がたい性格であったため、あの猜疑心の強い織田信長からでさえ信用されていたと言えます。
★正妻の築山殿と長男の信康を殺害
家康は38歳の時に正妻の築山殿と長男の信康を殺害しています。
これは2人が、武田信玄に内通しているという噂を信長が聞きつけ、信長の命令により殺害させたものでした。
一方、この武田信玄への内通というのは根も葉もない噂で、家康自身も、内通などありえないことが分かっていての殺害だったと言われています
このことからも、 家康は自分の正妻と跡取りである長男を自害させなければいけないほど信長との間で立場が弱く逆らえない状況だったということになります。
しかも、この長男信康は非常に優秀な人物であったそうです。
後年、関ヶ原の戦いに間に合わなかった跡取りである秀忠を見て、「信康さえ生きていてくれれば、こんな余計な心配はせずとも済んだのに。」と周囲に愚痴をこぼしていたそうです。
しかしながら、このように耐えしのいだ経験が、後に、「鳴くまで待とうホトトギス」と言う家康の性格を形成していき、天下人への器へと育て上げて言ったのかもしれません
★戦場での家康の性格
〇三方ヶ原の戦い
一方で、戦上手で知られた家康ですが、この時ばかりは、短気な面が見え隠れします。
家康が戦で最大の気の短さを見せたのは、武田信玄と対戦した三方ヶ原の戦いでした。
信玄軍3万の大軍に対して、籠城作成にでた家康ですが、信玄はこれを無視して城の前を悠然と通り過ぎていきました。
これに対して家康は、「俺を無視しやがった。」と腹を立て、作戦も無いままに真正面から突撃を開始します。
しかし、これを武田の騎馬隊に軽々と撃破され、命からがら自軍の城に戻ってきた時は、恐怖のあまり大便を漏らしてしまったという逸話もあります。
そして、この自身のカッコ悪い姿を絵師に描かせました。
この絵を「徳川家康三方ヶ原戦役画像」といいます。
家康は、この絵を見て、もう二度とこのような恥ずかしい思いはしないと自身に誓った言われています。
○関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いでは、当初、跡取りである秀忠が3万8千人の大軍を率いて参戦する予定でした。
しかし、秀忠軍は、関ヶ原に向かう途中の上田城で、真田昌幸・幸村親子の奇襲を受け、足止めにあってしまいました。
通常、3万8千人の大軍が来ないとなれば、かなりの痛手となるため、合戦の開始を遅らせようとするのが普通なのですが、家康は、間に合わない息子の秀忠に業を煮やし、短気を起こして合戦を開始してしまいます。
ちなみに、この関ヶ原の戦いは、周囲の地形、陣形の配置、軍の数などから考慮すると、西軍に圧倒的に有利な陣容であったようです。
野戦に精通している家康であればこそ、それを十分に理解していたと思うのですが、この時も自身の短気を抑えられなかったようです。
そして更に、家康は、事前に優柔不断な性格の小早川秀秋に裏切るようにそそのかし、了解を得ていたにもかかわらず、約束に時間になっても、いっこうに動こうとしない小早川軍に鉄砲を撃ちかけ、挑発することによって、裏切らせ、勝利を得ました。
★感情を抑えることで組織強化を図る
武田信玄は家康にとっては脅威であり、簡単には越えられない厚い壁でした。
しかし、そんな信玄を家康は領地の経営や、戦を行う際の手本にしていたようで、家康の経営手法や戦術は信玄を模倣していていると思われるところが多々見受けられます
そして、かつては、大敗を喫した武田家が滅亡した際には、武田家の遺臣達を多く召し抱え、猛者で知られる「山縣の赤備え」家臣の井伊直政に引き継がせています
徳川家のため、自軍の強化のため、かつての敵を自分の軍に迎え入れるなど、過去の遺恨を忘れて有能な軍団は自分の傘下に引き入れる、ここが家康の凄いところだと思います。
このように、家康は感情的にならずに冷静に状況を判断し理性で物事を考えられる性格だったように思います
★倹約家で健康マニア
家康の性格を語る上でなくてはならないのが、倹約家であったことと、健康マニアであったことだと思います。
倹約家であったこととして、天下を取った後ですら、天候の状況から米の値上がりを察知して買い占めて利益を得たり、普段の食事・服装も質素・倹約を心掛けていたそうです。
基本的に、贅沢を嫌い、部下などが物を粗末に扱った時などは機嫌が悪くなっていたようです。
また家康は健康オタクとしても有名です。
専属の医者が処方した薬ではなく、自らが漢方を調合しそれを服用して健康管理を心掛けていました。
家康が天下を取った最大のキーポイントは、長寿であったことだと言われています。
実際、豊臣秀吉がなくなり天下取りへと動き出した時には家康が58歳という年齢でしたので、人生50年の当時においては、この長寿が家康にもたらしたメリットは大きかったと思われます。
★最後に
以上、家康の性格をまとめると次のとおりです。
- 幼少の頃からの苦労人で我慢強かった。
- 信玄を手本にした経営と戦術を行って、将として素晴らしかった。
- 感情よりも理性を優先し、組織強化を図った。
- 質素倹約を常とし、健康に気を配った。
これらの内容は、現代に生きる我々にも必要なことばかりですね。
現代の映画・テレビでは、憎たらしい敵役となっている家康ですが、我々も手本にすべきだと改めて感じたところです。