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★徳川家康は子供時代に今川家で人質という名の好待遇を受けていた?
徳川家康が子供時代に人質として、六歳から八歳の途中までは尾張の織田家に、八歳の途中から十九歳までは、駿河の今川義元で過して、辛い生活を過ごしたとされています。
また、史料「三河物語」にも今川義元での人質時代の悲惨な様子が描かれ、一般的には、そのころの忍従の生活が後年の家康の忍耐力を培ったとされています。
今回は、この家康という人間を作ったとされる今川家での人質時代のお話を御案内します。
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★徳川家康は子供時代に今川家で人質という名の好待遇を受けていた?
しかし、一般に考えられている以上に、今川義元に人質として取られていたときの家康の場合、人質としては好待遇を受けていたのでした。
家康は、晩年、温かい気候も気に入って駿府で過しますが、もし仮に今川家での人質時代が地獄であったのなら、わざわざ晩年を駿府で過すことはないと思われます。
確かに、人質は、自分の親元にいるような自由さはありません。
しかし、少なくとも、家康が駿府に抑留されていた当時は、座敷牢のようなところに押し込められ自由が一切ないという境遇ではなく、家康が少年であったがゆえに、高い教育を受けるなど、武将としての基本を学んでいました。
しかも、家康を教育したのは、今川義元の軍師とも執権ともいわれる雪斎から学んでいるのでした。
★徳川家康は雪斎(太原崇孚)より英才教育を受けていた
家康は、8才で今川家に人質に来て以降、雪斎に教えを受けています。
雪斎は、今川義元がまだ禅寺で修行していたころの兄弟子であり、義元自身、雪斎の養育を受けていました。
雪斎は、当時、雪斎は駿府の臨済宗の住持であったが、臨済宗妙心寺派の総本山である妙心寺の第三十四世の住持にもなった当代を代表する高僧の一人でした。
このような高僧から、しかも今川家の頭脳的役割を果たしている人物から直接教えを受けるなど、ふつうの人質にはできないことであった。
ちなみに、雪斎は単に僧侶というだけでなく、義元の軍師であり、天文十五年(一五四六)から本格化する今川軍の三河侵攻に当っては、自ら大将として出陣しているほどでした。
そして、家康は、ただ雪斎から読み書きを習っただけでなく、かなり高度軍事教育も受けています。
その根拠として、近世成立の「武篇咄聞書」(京都大学附属図書館所蔵)に、桶狭間の戦いのときの家康の行動を記したところで、「雪斎の董陶を受けたから、こうした行動をとることができたのだと皆でいいあった」といった趣旨が記載されているのでした。
仮に、家康が今川義元の人質に取られず、そのまま三河岡崎城にいたのであれば、雪斎のような人物に出会うこともなかったし、ましてや、こうした教育を受ける機会はなかったと思われます。
つまり、このときの家康は「人質」というよりも、一種の「留学」に、しかもその道の第一人者の教授の下に相当した留学だとも言えるのでした。
★徳川家康の人質好待遇を示す「元」の文字
また、家康は、竹干代が元服するとき、義元から"元"の一字を与えられています。
このため、はじめは、「元信」と名乗り、やがて「元康」と改めています。
このころ、人質の元服にあたって、主君が偏譚を与える例は皆無といっていいと思われます。
また、このころの今川家臣団をみると、岡部元綱とか朝比奈元置など、義元から偏謹を与えられているものは重臣クラスに限られていました。
そうすると、家康は、人質でありながら、将来の重臣待遇を約束されていたことになるのでした。
これはやはり、好待遇を物語るものとみてよい。
★徳川家康の人質好待遇を示す「結婚」
そしてもう一つ、家康は今川義元の妹の娘、すなわち姪と結婚しています。
当主の姪と結婚するというのは、通常の人質では考えられないことでした。
ちなみに、この時に結婚した築山殿は、その性格の激しさが家康の悩みの種になりますが、少なくともこの結婚自体は今川家の善意行われたものでした。
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★徳川家康の人質時代のエピソード
このため、徳川家康の今川家での人質時代のエピソードは、むしろ、自由・闇達に動きまわっていた様子を読み取ることができます。
安倍川の川原での石合戦を見に行き、人数の少ない方がかえって結束力が強いのを見て、「人数が少ない方が勝つ」と予言してお供の者をびっくりさせたという話も伝わっているし、ある年の正月、駿府今川館に出仕し、重臣たちが年頭の挨拶をする場に家康も同席するということがあり、いつ義元様がお出ましかというときに、尿意をもよおした家康が縁側から立小便をし、まわりの者をあわてさせたといった話もあります。
また、子どものころから鷹狩りをおぼえ、それにはまりこんでいたらしく、たまたま義元の父氏親の菩提寺である増善寺という寺にお参りにいったとき、裏山に野鳥がいっぱいいるのを見た家康、「ここで鷹狩りをやりたい」といいだした。それを聞いた増善寺の住持等膳和尚に、「寺境内は殺生禁断である」とたしなめられる一幕もあったのでした。
これらのエピソードからは、忍従の人質時代というイメージと全く異なり、腕白少年家康といった印象を受けるものです。
だからこそ、将軍職を子・秀忠に譲ったあと、それこそ、隠居の場所をどこにしてもいいといった段階で駿府を選んだのだと思われます。
実際、駿府城に入った家康が、江戸増上手の僧観智国師の「なぜ駿府を隠居の地に選んだのですか」という質問に答え、一番最初に、「我幼年の時、此盧に住したれば、自から故郷の感あり。忘るべからず。幼時見聞せし者の、今成長せしを見るは、なかなかに愉快なる事あるものなり」(「廓山和尚供奉記」)と、駿府は自分の故郷のようなところだと語っているのでした。
★なぜ今川義元は人質・徳川家康を好待遇にしたのか
では、なぜ、人質に取った側の義元が家康に対してなぜこうした好待遇をしたのでしょうか?
このあたりのことについては、義元側の史料にも家康側の史料にも何も残されたものはありません。
しかし、好待遇の共通点としては、家康を良い武将に育てたいという点にあると思われます。
おそらく、義元は、将来、家康がわが子氏真を支えてくれる武将になることを期待していたと思われます。
つまり、その根底には、三河松平氏がもう自分の傘下に入っているという自信があり、家康を将来の今川家を支える人材として育てていきたかったと思われます。
通常、同盟関係の場合には、いつ相手が背くかわからず、同盟関係の証にとった人質に恩情をかける必要はありません。
しかし、家康の場合は同盟関係というわけでなく、いってみれば今川保護国三河松平氏の当主である家康を人質にとっているわけで、松平家臣団が背かないように人質にとっていたという形であり、むしろ、家康を一門待遇・重臣待遇で遇することによって、松平家臣団を取り込んでしまおうという狙いがあったものだと思われます。
そして、家康に雪斎から兵法のことなども学ばせたのは、わが子氏真の片腕になってくれることを期待していたからと思われます。