織田信長の愛した女性というと、正室であった斎藤道三の娘・濃姫を思い浮かべる人が多いと思います。
しかし、濃姫は子がなく、早くに亡くなっており、「桶狭間の戦い」のときには、死亡していたとも言われています。
一方、今回ご紹介する生駒吉乃(いこまきつの)は、信長の嫡子・信忠、二男・信雄、長女・徳姫と3人の子を産み、『武功夜話』には吉乃を御台様(正室と同じ意味)と呼び、小牧山城の城主夫人として扱っています。
しかし残念ながら、吉乃も早くに亡くなってしまいます。
そして、その時の信長の行動が、その愛の深さを物語っており、今回は、その内容を御紹介します。
★織田信長が心から愛した女性
織田信長が心から愛した女性と言われているのが、吉乃です。
吉乃は、信長の母である土田御前と姻戚関係にある生駒家宗(いこまむねいえ)の娘で、生駒家は馬借を生業としていました。
当初、吉乃は、土田弥平次という明智救援軍の武士のところに嫁ぐが、明智救援軍が斎藤龍興との戦い(明智城の戦い)で亡くなってしまった。
このため、吉乃は実家の生駒屋敷に戻っていたところ、信長が気に入ることとなります。
信長は、吉乃を幼い頃から知っていましたが、未亡人になって、憂いに沈む風姿が信長の心を締め付けたと思われます。
当時、吉乃は19歳で信長よりも4歳年下でした。
★織田信長の側室となる
信長は吉乃を側室として以降、正室の濃姫に隠れて、吉乃との密会を繰り返すようになります。
当時の信長の住まいであった清洲城から生駒屋敷までは約10キロ、近習を引き連れた信長は、馬を飛ばして、この生駒屋敷に出向いていました。
そして、吉乃は三人の子を産みます。
信長は、いずれの出産も濃姫に悟られないよう、生駒屋敷から離れた秘密の場所で産ませました。
★吉乃は癒し系の女性?
信長の生涯は恐るべき野心と戦いに満ち溢れて、短気の人との印象しかないが、なんと吉乃の前では実に優しい男性であった。
これは、吉乃は気立ての優しい女性だったので、戦い続けている信長にとって、吉乃は心休まる安らぎの場で、吉乃が傍にいると機嫌が良かったといいます。
また、信長は、吉乃の前では、はしゃいでいて、「死のうは一定 夢の世なれば 婆々どのおじゃれよ あねさも下され 夏の夜は短く夢枕 明けやらぬ間の仇情」と歌い、踊るなど、楽しい一時を過ごしたといいます。
そして、信長は、この生駒屋敷に出入りする野武士らの情報をもとに、桶狭間に今川義元が休息しているという情報を得て、「桶狭間の戦い」に勝ったと言われています。
さらに、後日、信長の右腕となる秀吉も、この生駒屋敷に出入りしていたのが縁で、吉乃の仲介によって、信長の家臣になるのでした。
★吉乃が病に
信長は、居城を清洲城から小牧山城に移します。そして、小牧山城に吉乃のために御台御殿をつくったので、引っ越すように命じました。
しかし、彼女は生駒屋敷で病の床に伏せていました。
ちょうどこの頃、信長は、築城の指揮や戦いの連続で生駒屋敷に足が遠のいたため、吉乃の病状が悪いことを初めて聞き、驚いて、早速生駒屋敷を訪れました。
信長は、骨と皮だけに瘦せ衰えてしまった吉乃に「元気を出せ」と勇気づけ、枕元を離れませんでした。
そして、吉乃は御台御殿に連れて行こうとする信長に、嬉し涙を流して、「妾のために寸暇をさき見舞い下され忝し。かくなる如き病体と成り果て、御役にも立たざる事無念に候」(『武功夜話』)といって、御台御殿に入ることを辞退しました。
しかし、信長は、「俺の御台はお前しかおらぬ。御殿はそなたのために建てたものぞ」と言って聞きませんでした。
その翌日、信長は、輿を生駒屋敷に向かわせ、4キロの道を用心深く病身の吉乃を運ばせ、途中まで家臣たちに出迎えさせて、小牧山城に迎え入れます。
入城後、直ちに信長は、吉乃の手を引いて家臣一同が揃う御書院に出て吉乃を披露しました。そして、その御書院には、吉乃の3人の子供たちも揃っていました。
しかし、その後も吉乃が健康を取り戻すことはありませんでした。
信長は、医者を付け、高額な薬湯も飲ませますが回復せず、帰らぬ人となってしまいました。
★信長にとってかけがえのない女性
信長にとって、吉乃は本当にかけがえのない女性であったようです。
吉乃が29歳での永遠の別れとなってしまいましたが、33歳の信長は、小牧山城から西方の葬地を望み、ひとり涙にくれていたと、吉乃の菩提寺縁起は語っています。
現在、その吉乃は荼毘に付され、信長が涙とともに遠望した地に、高さ1.25メートルの観音像を浮き彫りした板碑が、直径10メートルを超す彼岸桜を日傘にして、たたずんでいます。