「磐井の乱」とは、四世紀半ばに朝廷軍と九州の磐井軍が戦争したものです。
この戦いは、九州で勢力を誇っていた磐井が、朝廷に対して、統一国家づくりに対する反乱だと思われていました。
しかしながら、近年になって、これは単なる統一国家づくりの反乱ではなく、磐井が朝鮮半島における利権・権益を守るための戦いではなかったのかと言われています。
それでは、この当時、磐井は、九州にどのような利権・権益を持っていたのでしょうか?
今回は、この内容について御案内します。
★磐井の乱の概略
四世紀半ば、大和朝廷は、国内情勢が安定してきたため、朝鮮半島への進出を図り始めていました。
このため、皆那日本府を拠点として、朝鮮半島での勢力を拡大していきました。
しかし、六世紀になると、朝鮮半島では新羅が勢力の伸ばし、朝廷の皆那日本府は存続が危うくなってきます。
これに対して、朝廷は、継体21年(527年)、新羅の侵略を阻止するために、近江毛野を将軍とする六万人の軍勢を朝鮮半島に送ることとなりました。
ところが、朝廷軍は九州から朝鮮半島に渡る前に、九州の筑紫国造・磐井が朝廷軍に攻撃を仕掛けてきたのでした。
磐井は、筑紫、火国、豊国と、当時の九州のほとんどの兵士を動員して、戦いを仕掛けてきたため、朝廷軍とは大規模な戦争となりました。
このため、継体天皇は、大連・物部麁鹿火に、磐井討伐を指示します。
しかし、麁鹿火をもってしても、なかなか戦争は終らず、朝廷軍は、磐井軍を制圧するまでに一年半の歳月がかかったのでした。
これが「日本書記」に記載されている磐井の乱の概略です。
★磐井の乱の原因の通説
この「磐井の乱」については、従来、磐井が朝廷の統一国家づくりに反発するための戦いだと考えられていました。
それは、この当時、磐井は朝廷に従わない有力な豪族の一つだったため言われていたことでした。
このため、朝廷の朝鮮半島への勢力拡大が、いずれ磐井への圧力になりかねないと考えて攻撃を仕掛けてきたものだと考えられていました。
★磐井の乱の原因の新しい説
しかし、近年、この磐井側の動員規模が余りにも大きいため、磐井が朝鮮半島における何らかの利権・権益を守るためのものだったのではないかと言われています。
であれば、この当時、磐井は、どのような利権・権益を朝鮮半島に持っていたのでしょうか?
考えられるのが、この時代、一部行われていたと推察される傭兵派遣です。
この当時、朝鮮半島では百済、加羅諸国の対立が激化する中、新羅の勢力も増し、朝鮮半島は混乱の最中にありました。
このため、磐井は、百済などからの傭兵派遣依頼を受けて兵士を送っていたとも言われています。
この傭兵派遣の規模がどの程度であったのかは不明ですが、もし、仮にかなりの規模であれば、相当の利益が朝鮮半島から磐井に流れていたと考えられます。
そして、磐井が、実際に朝廷軍に対して大規模な戦争を仕掛けたことを考慮すると、兵士派遣規模が、かなりの規模であったことも十分に考えられるのでした。
そうすると、磐井は、朝廷に自分達の兵士派遣で得ていた利権を脅かされるという理由から、朝廷軍に攻撃を仕掛けていったのではないかと考えられるのでした。
★最後に
以上の内容をとりまとめますと、次のとおりとなります。
・磐井の乱とは、朝廷軍が朝鮮半島に攻めていこうとしたところ、九州で勢力を誇っていた磐井が朝廷に攻撃を仕掛けてきた戦い。
・この乱の原因は、統一国家を目指す朝廷に対して、九州で勢力を誇っていた磐井が反乱したものと思われていた。
・しかし、近年においては、余りにも大規模な戦いであり、もっと直接的な利権・権益が関わっていたのではないかと言われだした。
・この当時、朝鮮半島への利権・権益となると考えられるのが一部行われていたとされる傭兵派遣。
・その当時、朝鮮半島は相当に混乱していて、磐井は百済などに傭兵派遣をしていたと言われている。
・磐井の朝廷軍への攻撃を考慮すると、相当な規模の傭兵派遣が行われていたしても不思議ではない。
・しかし、朝廷軍が6万人の兵士を送ると朝鮮半島の勢力分布が変わり、磐井にも大きな影響がでる。
・このため、磐井は、かなりの規模の兵士を九州全土から集めて、戦ったのではないか。