日本の都というと、京都のイメージが強いですよね。
京都は、千年間、日本の都であった訳ですから、そのイメージが強くても当然なのかもしれません。
しかし、古代においては、日本の首都は何度も変わっています。
ちなみに、八世紀の100年間には、平城京、長岡京、平安京と2回の遷都が行なわれました。
そして、日本史上、桓武天皇だけだと思うのですが、彼は、この2回の遷都を行いました。
しかし、この桓武天皇による遷都は、疑惑も取りざたされています。
今回は、この桓武天皇の遷都について御案内します。
★桓武天皇の功績
桓武天皇は光仁天皇の皇子で、天応元年(781年)に即位し、延暦二十五年(806年)まで在位しました。
桓武天皇の功績としては、蝦夷征討や、最澄・空海の登用による平安仏教の確立、更には地方政治の振興など、輝かしい業績を残しています。
これらの功績により、約400年続く平安時代の基礎を作った人物とも言われています。
★桓武天皇の最初の遷都
桓武天皇は、延暦三年(784年)、平城京から長岡京への遷都に踏み切りました。
長岡京は、その近くを桂川、宇治川などが流れており、更にそれらの川が合流する淀川からも近かったため、船で物資を運ぶのにとても便利な場所でした。
また、平城京で問題となっていた生活排水についても、これらの川が近かったため、問題のない立地条件でした。
しかし、長岡京造営の責任者であつた藤原種継が、延暦四年(785年)、何者かによって暗殺されてしまいました。
藤原種継は、桓武天皇がとても信頼していた寵臣でした。
そして、藤原種継は、長岡京造営の中心的役割を担っていただけでなく、遷都に係る資金面でも多額の出資をしていたのでした。
しかし、遷都の中心的な人物が亡くなってしまったため、長岡京造営工事は遅れがちになっていきました。
★早良親王の無罪の訴え
事件の首謀者はすぐに判明します。
藤原氏と対立していた大伴継人・竹良ら数十名でした。
さらに、この事件の黒幕として、桓武天皇の実弟で、皇位継承者の早良親王の名前が挙がってきました。
そして、事件関係者は捕らえられます。
早良親王は、黒幕として名前が挙がった際、まず長岡京にある乙訓寺で幽閉されました。
しかし、早良親王は無実を訴えます。
早良親王は、絶食してまで無実を訴え続けましたが、聞き入れられませんでした。
そして、斬刑や流刑など厳しい処罰が下されます。早良親王は淡路島への流罪となりました。
ですが、早良親王は無罪を訴えます。結局、早良親王はそのまま絶食を続け、淡路に移送される途中で恨みを抱いたまま餓死してしまいました。
この早良親王の哀れな最期を聞いた桓武天皇ですが、早良親王を許しませんでした。
このため、早良親王の遺体を予定通り淡路に送り、その地に葬ったのでした。
★早良親王の祟りが始まる
こうして、藤原種継暗殺事件は一応の決着をしました。しかし、しかし、桓武天皇の周りで、不幸な出来事が次々と起こり始めます。
桓武天皇は、早良親王が亡くなったので、まだ幼い息子の安殿親王を皇太子にして、長岡京の造営を進めていくこととなりました。
しかし、安殿親王が重い病に倒れてしまいます。
その後、桓武天皇の生母、皇后、夫人らが次々と死亡していくのでした。
さらに、世間においては、疫病が蔓延します。そして、飢僅や洪水が起こったりと、通常時では余りあり得ないような不吉な出来事が、しかも頻発に生じたのでした。
桓武天皇は、これらの不吉な出来事は、早良親王の怨霊の崇りだと恐れます。
そして、ついには長岡京の造営をあきらめて、平安京への遷都を決めたのでした。
★もう一人の犯人説
では、どうしても気になるのが、早良親王は藤原種継の暗殺の黒幕だったかということです。
これには、答えはなく諸説があるだけで、真相は謎のままです。
しかし、その諸説の中には、桓武天皇が藤原種継の暗殺の黒幕ではないかという説まであります。
前述の通り、桓武天皇のあとの皇位継承者は弟の早良親王とされていました。
しかし、それが決まったのは、桓武天皇の息子・安殿親王が生まれる前のことでした。
このため、当然に桓武天皇の心中には、「安殿親王を皇位継承者にしたい」という思いが強くなっていて当然だと思われます。
一方、桓武天皇は、長岡京の造営を推し進める中で、何らかの意見の相違があった藤原種継の暗殺を決行して、邪魔になった早良親王に無実の罪を着せたのではないか、という説なのでした。
少々取って付けたような雑な説のようにも思えるが、実は、桓武天皇は自分が皇位につく際、義父母らを謀殺したという過去を持っているとのことです。
その桓武天皇の性格を考えると、実弟を死に至らしめたとしても不思議ではないと思われるのでした。
★不幸な出来事が続き遷都
しかし、結局、不幸な出来事が続いた結果、桓武天皇は長岡京から平安京に遷都したと言われています。
この不幸な出来事が続いたことが、桓武天皇にとって、早良親王の崇りだと思っていたか否かは不明ですが、結果的に、桓武天皇は長岡京を捨て去らるを得なくなりました。
そして、新たに造営された平安京は、その後1,000年に及ぶきらびやかな都となります。
しかし、桓武天皇の心中は、無罪の実弟を手にかけたという罪の深さにさいなまれ続けていたのかもしれません。