武田信玄の重臣で名軍師と言われた山本勘助。
彼は、歴史上の人物の中で、最も架空の人物であると言われてきた一人です。
しかし、近年、山本勘助のことをしたためた信玄の文書が発見され、武田軍の大将クラスに存在することが分かりました。
今回は、この内容をご案内します。
★史料価値の低い「甲陽軍艦」
山本勘助は、武田氏の合戦や軍法を記録した「甲陽軍艦」に記載されている天才的な軍師です。
しかし、武田氏のことを記述した他の史料には登場してきません。
そして、明治時代に、それまで軍学書の聖典と言われていた「甲陽軍艦」が、後世の創作であることが分かりました。
このため、軍師・山本勘助の存在自体が疑われ、架空の人物か、若しくは武田家の足軽など下っ端の家臣だと言われていました。
★武田信玄の書状が発見される
ところが、1969年、北海道の市川良一氏宅から武田信玄の書状が発見されました。
そして、その書状の中に、伝令役として、「山本菅助」という人物が明記されていました。
ちなみに、伝令役とは、下っ端の雑務的な仕事ではなく、大名間の重要な機密情報を取扱うポジションでした。
このため、山本勘助実在説が再浮上したのでした。
★さらに、武田信玄の書状が発見
そして、2007年、武田信玄の新たな書状が発見されました。
それは、信玄が長谷の名家・黒河内家に宛てた文書が発見され、その中には、山本勘助を大将にして、城攻めの準備をせよ」という伝令が残っていました。
このため、軍師としての山本勘助実在説が再浮上するのでした。
★最後に
大将クラスに山本勘助が実在したことは、確認されました。
けれども、「甲陽軍艦」以外の史料に、山本勘助が記載されていないことも事実です。
「甲陽軍艦」の中で、山本勘助は三国志の諸葛孔明ばりの働きをしており、それが事実であったかは疑問の残るところです。
しかし、今後の新たな書状等の発見によれば、大将クラスでかなりの戦上手な軍師であったという可能性はあります。
今後の新たな書状等の発見に期待したいと思います。