歴史上の人物

黒田官兵衛は名軍師として秀吉を天下人にする

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 天正三(一五七五)年、天下統一を目指す織田信長は、播磨国(現在の兵庫県)に進軍を開始し、中国地方を支配する毛利輝元と対峙しました。

 この信長の進軍に、播磨の豪族の多くは毛利方につくことで結束を固めます。

 しかし、ただ一人、信長につくべきと異を唱えた男がいました。

 それが、姫路城の城代だった黒田官兵衛でした。

 官兵衛は、信長の将来性を見抜いており、単身で信長のもとに向かって中国平定の策を伝えます。

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 信長は、官兵衛の策を聞き、すぐさま官兵衛に刀を与えました。

 信長を天下人と見抜いた官兵衛を、信長もまた認めた瞬間でした。

 今回は、この黒田官兵衛のお話をご案内させて頂きます。

 ★黒田官兵衛の知略は十倍の敵を撃退する 

 しかし、一方で官兵衛が信長に味方したことを知った毛利輝元は怒ります。

 そして、五千もの軍勢を姫路城へ差し向けました。

 この時、官兵衛率いる兵はわずか五百でしかありませんでした。

 このため、官兵衛は、毛利軍に奇襲をかけます。

 そして、兵の後方に待機させていた農民や漁師に、にわかづくりの職や旗を手に持たせ、一斉に鬨の声をあげるよう命じました。

 その状況に、毛利軍は、それを信長の援軍と錯覚して、総崩れとなりました。

 つまり、官兵衛はわずか十分の一の兵力で毛利軍を撃退したのでした。

 ★黒田官兵衛が幽閉される

 天正五(一五七七)年、信長は羽柴秀吉を総大将に、新たに五干の精鋭を播磨に送り込みました。

 しかし、秀吉に仕える身となった官兵衛は、その弁舌で、戦いを始める前に豪族たちを調略し、説得することに成功していきます。

 このため、秀吉はたった二か月にして、しかも戦わずに、播磨平定を行うことができたのでした。

 そして、当然ながら、この豪族たちの裏切りに、毛利輝元は激怒します。

 このため、毛利輝元は、五万八干もの大軍を播磨へと差し向けました。

 すると、その大軍勢を目の当たりにした播磨の豪族たちは、再び毛利方に寝返ります。

 つまり、秀吉軍は孤立無援の情勢に追い込まれてしまったのでした。

 この状況に官兵衛は、自分の説得の甘さのせいで秀吉の面目をつぶし、窮地に追いやってしまったので、何とかして責任を取らねばと考えます。

 そして、官兵衛は殺されることを覚悟の上で、豪族たちをもう一度説得しようと、たった一人、豪族の城に乗り込みました。

 しかし、官兵衛は、説得する前に捕らえられてしまい、牢に幽閉されてしまいます。

 ★黒田官兵衛と秀吉との絆が強くなる

 いつまでも帰ってこない官兵衛に、信長は官兵衛が敵に寝返ったものと考え、「裏切り者、官兵衛の息子を殺してしまえ」と秀吉に命じます。

 しかし秀吉は、信長の命に背き、官兵衛の息子を匿ったのでした。

 そして一年後、秀吉軍はようやく官兵衛を救い出すことに成功します。

 秀吉は衰弱して、変わり果てた官兵衛と再会して、こう語りかけます。

 「命を捨てて城に乗り込むこと、忠義の至り。我この恩に如何にして報いるべきか」

 官兵衛もまた、秀吉が信長の命に背いてまで息子を救ってくれたことを知り、改めて秀吉への忠義を誓ったのでした。

 この時、秀吉四十二歳、そして官兵衛三十四歳。天下取りを目指す二人の長い道のりの始まりでした。

 ★黒田官兵衛は秀吉に天下を取らせると宣言する

 天正十(一五八二)年、播磨を平定した秀吉は、備中国(現在の岡山県)に進軍しました。

 つまり、秀吉は、いよいよ毛利軍との決戦を迎えるということでした。

 秀吉は、毛利軍の守りの要である高松城を、『水攻め』で攻め落とそうとします。

 当初は、水を上手く積止められなかったものの、官兵衛の智恵でやっと水攻めが軌道に乗り始めました。

 その矢先に、大事件が生じます。本能寺の変でした。

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 この連絡を知り、秀吉は、信長の死に号泣し、激しく動揺します。

 しかし、官兵衛はとても冷静でした。

 そして、官兵衛は秀吉に言います。

 「秀吉様、ご武運が開けましたな。天下をお取りなさいませ。」

 官兵衛のその言葉を泣きじゃくりながら聞いた秀吉は、ようやく意味を悟ります。

 そして、秀吉は、はっと我に返り、官兵衛に問いかけました。

 「只今の計略如何にすべき」

 ここからが、黒田官兵衛の一世一代の大勝負が始まりまったのでした。

 ★黒田官兵衛が手はずした『中国大返し』

 まず、官兵衛は、夜も明け切らぬうちから毛利方と利睦の交渉に入ります。

 そして、信長の死が毛利方に伝わる前に、わずか一日で和睦を結ぶことに成功しました。

 そして、六月六日の午後から、世に言う「中国大返し」が始まります。

 高松城から京都まで約200キロあります。

 少しでも進軍を楽にするため、官兵衛は先回りして、道々の領民に指示を出し、秀吉の軍勢のための炊き出しや水を絶やさぬようにさせました。

 ★黒田官兵衛は明智光秀との決戦にも知略を使う

 そして、六月十三日、秀吉と光秀は激突します。

 この戦いの勝敗を決したのも官兵衛の知略でした。

 戦いが始まって膠着状態が続く中、突如として秀吉軍の陣中に毛利軍の旗が翻ったのでした。

 これを見た明智軍は、毛利までが秀吉の味万をしていると勘違いします。

 動揺した同明智軍は、もはや秀吉の敵ではありませんでした。

 ちなみに、この毛利の旗は,官兵衛が光秀との戦いを見越して、和睦交渉の際、毛利から二十本程度借り受けたものでした。

 ★黒田官兵衛の実力を脅威に感じる秀吉

 その後、秀吉は官兵衛を右腕として天下人への道を歩むます。

 しかし同時に、秀吉は官兵衛の実カとその冷静さに脅威を感じていたのでした。

 このため、中国大返しや光秀に勝利した時も、わずかな恩賞しか与えませんでした。

 さらに、官兵衛が四国平定に鮮やかな手並みを見せたときは、秀吉は一切恩賞を与えませんでした。

 しかし、官兵衛は、黙って秀吉の命令に従い、次の九州平定に向かいます。

 官兵衛の座右の銘は、

  「我人に媚びず,富貴を望まず」

 これは、恩賞のために媚びるのは本意ではないというのです。

 それはナンバー2として、秀吉に対等にものを言うために官兵衛が選んだ生き方でした。

 そして官兵衛は、巧みな情報戦で九州を平定します。

 この九州平定の功で、官兵衛に与えられたのは、豊前国の一部、わずか十二万石でした。

 それでも、官兵衛は黙って豊前国に向かいました。

 ★冷静な黒田官兵衛の顔色が変わった秀吉の言葉

 この頃の秀吉の心境を物語る逸話が残っています。

 ある日、秀吉は「もしわしが死んだら、代わって天下を治めるのは、誰と思うか?」

 と側近たちに問いかけ、「家康どの、いや前町利家どのか」という声を制して、こう言います。

 「天下に一人だけ、ふさわしい男がいる。黒田官兵衛だ」

 そして、この話は、人づてに官兵衛に伝わりました。

 すると、これを聞いた官兵衛は、顔色を変え、次のように語りました。「この官兵衛、秀吉殿の天下取りのために、死力を尽くして戦った。苦言も呈した。しかし功を訴え、恩賞を媚びたことはない。秀吉殿がこの官兵衛に天下取りの心ありとするなら、もはや、我が任は終わった」

 そして、官兵衛は家督を息子に譲り、隠居することを秀吉に願い出ます。

 さらに、自らを如水円清と呼ぶようになります。

 これは、他人からどう思われようと、自分の心は清らかな水のようでありたいと願う黒田官兵衛、四十四歳の境地でした。

 ★黒田官兵衛が天下統一を仕上げる

 天正十八(一五九〇)年二月、秀吉は天下統一のために、最後の砦、関東の小田原城に兵を進めます。

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 そして、秀吉は、この戦いに勝てば、いよいよ念願の天下統一となります。

 この戦いには、隠居した官兵衛も、秀吉に請われて同行しました。

 秀吉は、二十六万という未曾有の大軍勢で小田原城を包囲します。

 しかし、北条氏は、なかなか屈しようとしません。

 そして、包囲すること百日、万策尽きた秀吉に残された頼みはやはり官兵衛でした。

 戦場での幾多の交渉に臨んできた官兵衛は、相手の思いを汲んでこそ、和睦がなることを知っていました。

  そして、和平交渉で、官兵衛は氏政に語りかけます。

 「大軍を前にして、籠城すること百日。北条殿の武名は十分天下に伝わった」

 「秀吉公と和睦し、家名を残すことこそ、北条家百年の大計ではどざらぬか」

 そして、天正十八年七月五日、北条氏はついに降伏します。

 武田信玄も、上杉謙信も落とせなかったと言われる難攻不落の小田原城が落城したのでした。

 そして、それは秀吉が真の天下人の座についた瞬間でもありました。

★黒田官兵衛の辞世の句

 戦国時代の百三十年統いた戦争の世は、秀吉が天下統一という形で一応の幕を下ろしました。

 そして、この秀吉の天下統一には、黒田官兵衛が居なければ、決して実現しなかったと言っても過言ではありませんでした。

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 そして、天下統一を成し遂げてから八年後、秀吉が世を去ります。そして秀吉の死の六年後の慶長九(一六〇四)年、官兵衛は、その五十九年の生涯を閉じたのでした。

 「おもひおく言の葉なくてつひに行く  道はまよはじなるにまかせて」

 この世に思い残すことはもう何もない。今は迷うことなく心静かに旅立つだけだ。黒田官兵衛の辞世の句です。

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