歴史上の人物(女性)

松の丸殿は豊臣秀吉の側室の中で最も美人

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 松の丸殿は、数ある豊臣秀吉の側室の中で、最も美貌の人だったと言われています。

 血筋としては、名家京極家の出で、淀殿とは従姉妹に当たります。

 しかし、淀殿とは仲が悪く、有名な話しとして、醍醐の花見では淀殿と大きなバトルを演じています。

 今回は、この松の丸殿をご紹介させて頂きます。

★松の丸殿の生い立ち

 松の丸殿の実家は名家京極家です。

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 一方、淀殿の実家である浅井家は、もともとは京極家に仕えていましたが、下克上によって、主従関係が逆転していました。

 松の丸殿の父は京極高吉という人物で、母は浅井久政の娘でした。

 つまり淀殿の父・浅井長政と松の丸殿の母は姉弟であり、松の丸殿と淀殿は従姉妹同士でした。

 ちなみに、松の丸殿は名を竜子といいました。

 そして、秀吉の側室となった当初は京極局と呼ばれ、大坂城に西ノ丸を与えられて西の丸殿、伏見城では松ノ丸をもらってからは松の丸殿と呼ばれました。(ここでは、全て松の丸殿と表記します。)

★松の丸殿の結婚

 松の丸殿は、始め若狭の守護・武田義統の子の孫八郎元明に嫁入りしました。

 そして、夫・元明は本能寺の変のあと、明智光秀の呼び掛けに応じて味方しました。

★本能寺の変のあと

 しかし、本能寺の変のあと、明智軍は秀吉軍に敗れてしまいます。

 このため、夫・元明は、近江海津の宝幢院で切腹しました。

 また、同じく本能寺の変のあと、松の丸殿の弟の京極高次も明智光秀に味方して、おねのいた長浜城を攻めましたが、明智軍が敗れたので流浪の身となりました。

 一方、明智軍敗戦後、松の丸殿は、京極家家臣にかくまわれ、越前敦賀に潜んでいましたが、秀吉の一味に発見されてしまいました。

★秀吉の側室となる

 越前敦賀に潜んでいたところを発見された松の丸殿は、秀吉の前に連れ出されます。

 このとき、秀吉は、松の丸殿の美貌と、落ちぶれたとはいえ近江守護職をつとめた名家である京極家の家柄にほれてしまいました。

 このため、秀吉は、松の丸殿を自分の側室となるように勧めます。

 そして、松の丸殿も、実家である京極家の再興を条件に、秀吉の側室となることを了承したのでした。

★松の丸殿は側室として秀吉のお気に入りに

 松の丸殿は、淀殿と同様に最も秀吉の寵愛を受けた側室でした。

 天正18年(1590年)秀吉が、天下統一の仕上げとして、北条氏の小田原城攻めの際に、淀殿を同行させたのは有名な話しですが、このときは松の丸殿も同行していました。

 また、その二年後の朝鮮出兵では、肥前の名護屋城にも同行しました。

 更に、病気を患い、播磨の有馬温泉で療養していた際には秀吉から病を案じる手紙をもらうなど、深い愛情を受けていました。

★実家京極家の復興

 秀吉は、このように寵愛した松の丸殿の願いを聞き入れ、京極家の再興を認めました。

 そして、松の丸殿の弟・高次に二千五百石を与えました。

 遂には、文禄四年(1595年)に近江大津城六万石の大名に起用し、弟・高次と淀殿の妹お初(お江の姉)とを結婚させました。

★松の丸殿と淀殿の微妙な関係

  松の丸殿と淀殿は、従姉妹同士なので初めは仲がよかったが、次第に微妙な関係になっていきます。

 松の丸殿は、日ごろから秀頼の生母として権威をふるう淀殿を映く思わなくなっていきました。

 そして、家柄だけでなく、美貌の上でも、疸瘡をわずらいあばた顔の淀殿よりも、自分の方が数段も優っていると思ってました。

★松の丸殿と淀殿との花見での喧嘩

 こんな二人の微妙な関係を決定的にしたのは、秀吉が死ぬことになる慶長三年(1598年)の春に催された醍醐の花見での盃争いでした。

 この花見の女輿の順序は、そのまま秀吉の妻妾たちの序列を示していました。

 一番が正室おねであるのは当然で、次が淀殿、三番が松の丸殿、四番が三の丸殿(信長の娘)、五番が加賀殿となっており、六番目に前田利家の正室まつが続きました。

 この花見で側室たちは歌を競いました。

 淀殿は「花もまた君のためにと咲きいでて世に並びなき春に逢ふらし」と詠めば、松の丸殿も「朝霞春の山辺に立出て思ふ事無き花をみるかな」と短冊に筆をすすめました。

 満開の桜の下、酒に酔った秀吉が、輿の順序どおり盃をまわしていれば、何もおこらなかった。ところが秀吉は盃をいきなり松の丸殿にさし出してしまいました。

 これに、淀殿が怒りながら、「その盃、私がいただきます」と盃をうばったから大騒動になり、「いいえ、それは私が・・」と松の丸殿も取り合いになってしまいました。

★おねとまつが喧嘩を仲裁

 秀吉は女のケンカに目を白黒させて、なす術を知らず、おねとまつの二人が間に入って事を収めてくれました。

 そして、この事件をきっかけとして、松の丸殿はおねの方へ気持ちを向けていきました。

 また、秀吉が亡くなった後、松の丸殿はおねと同じく尼になりました。

★その後の松の丸殿

 関ケ原の戦いのときは、松の丸殿は弟・高次の近江大津城に身を寄せてきました。

 ちなみに、京極家は家康側につきました。

 松の丸殿は、関ヶ原の戦い後、弟・高次が徳川政権の下、大名として存続したことに安堵し、京都誓願寺に帰依して静かに余生を送り、寛永十一年(1634年)八十歳まで生きました。

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