菅原道真といえば、「学問の神様」として有名な人物です。
道真は、福岡県にある「太宰府天満宮」の祭神で、受験シーズンになると多くの受験生が訪問します。
道真は、とにかく頭脳明蜥だったと言われています。
貞観四年(862年)、式部省が実施する文章生試験に史上最年少の十八歳で合格、更には、万略試という最高難度の国家試験にも二十六歳で合格するのでした。
そして、これ以後、道真は、官僚となって要職を歴任します。
元慶元年(877年)には、文章博士(現在の東京大学総長と文部科学省事務次官を兼ねるような役職)に就きました。
さらに、その才能を宇多天皇に評価され、政界にも進出します。
そして、ついには右大臣にまで就任するのでした。
このように、道真は、自身の学問を活かし、どんどん出世していったことから、「学問の神様」として現代でも崇められているのでした。
★菅原道真は藤原時平の謀略を受けて流罪となる
しかし、ときの左大臣・藤原時平は、とんとん拍子で出世街道を進んでいく道真のことを快く思いません。
そして、あからさまに敵視し始めました。
さらに、藤原氏一族が得意な謀略を道真に仕掛けます。
時平は、醍醐天皇に「道真が謀反を企て、斉世親王を天皇に即位させようとしている」と密告したのでした。
これに対して、醍醐天皇は激怒します。
一方で、道真の後ろ盾だった宇多上皇は世情に疎かったため、状況を把握したときには時すでに遅く、道真は大宰府へ左遷されてしまったのでした。
そして、道真は、太宰府で衛生環境の悪い粗末な家屋に住まわされ、病気となって、流罪2年後の延喜三年(903年)に亡くなったのでした。
★菅原道真は悲劇の人?
こうして見ると、菅原道真は、藤原一族が得意とする謀略攻撃を受けた悲劇の主人公のようにも思われます。
しかしながら、藤原一族がいくら謀略を仕掛けても、火のないところには煙は立たないと言われるとおり、道真に何らかの抵抗できなかった理由があるかも知れません。
実際に、菅原道真というと、我々は勝手に、天才⇒学者肌⇒清廉潔白というようなイメージを持ってしまいがちですが、実は道真自身が、あわよくば天皇と外戚になるために政略結婚も行うなど、策略もしっかりと行っていたのでした。
これは、道真が、宇多天皇から政治的なことをすべて任されるほど信頼を得ていたときに、その立場を十二分に利用し始め、自分の娘を宇多天皇の第三皇子・斉世親王に嫁がせたのでした。
つまり、斉世親王が天皇に即位すれば、道真は天皇の外戚になることができたのですが、第一皇子の敦仁親王が即位し、醍醐天皇となったため、それは叶いませんでした。
そして、一方で「扶桑略記」が引用している「寛平御記」には、流罪となった後、道真の様子を見に大宰府へ出かけた藤原清貫の言葉が記述されています。
そこには、「醍醐天皇を廃位させて斉世親王を天皇にしようと、自ら企てたことではないが、誘いを断れなかった」 と、道真が悔やんでいたことが記されています。
つまり、もし、この内容が本当であれば、醍醐天皇が疑った通り、道真は斉世親王を天皇に擁立するためにアクションを起こしていたことになり、流罪はやむを得ないことになるのでした。
★菅原道真の死後、子孫は許され、神様となって神社に祀られる
一方で、道真の死後、京では様々な出来事が生じます。
まず、道真に謀略を仕掛けた藤原時平が病死、時平と謀略を仕掛けた源光は溺死、道真に疑いを向けた醍醐天皇の皇子が次々と病死しするとともに、朝議中に清涼殿が落雷を受けて多くの死傷者がでた上(清涼殿落雷事件)に、醍醐天皇まで亡くなりました。
これを道真の怨霊だと恐れた朝廷は、道真の罪を赦し、子供たちも流罪を解かれ京に呼び戻されました。
そして、清涼殿落雷事件から、道真の怨霊は雷神だとされました。
このため、火雷神が祀られていた京都の北野に北野天満宮を建てて、道真の怨霊を慰めようとしました。
そして、この北野天満宮の建立以降、災害が起こると、道真の怨霊と言われ、「天神様」として信仰することが全国的に広まっていきました。
その後、祭神である道真が頭脳明晰であったため、学問の神様として神社に祀られることになるのでした。