歴史上の人物(女性)

毛利元就の妻・妙玖(みょうきゅう)に見る子育と毛利家の象徴

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 戦国時代は、下克上もあれば、親子兄弟間でも敵味方に分かれて戦うことは稀ではありませんでした。

 そんな中にあっては、中国の毛利家は、親子・兄弟の絆をしっかりと保って中国地方で最も大きな戦国大名へと躍進していくのでした。

 この毛利家の家族間の絆を語った話として、毛利元就が亡くなる間際に、三人の息子が力を合わせて戦国時代を乗り切っていくように伝えた「三矢の訓」の伝説は、現在ではサッカーチームの名称にまでなっています。

 元就は、亡き妻・妙玖を毛利一族が団結するためのシンボルとして、三人の息子に亡き妙玖への念仏を唱えることを習慣にすることを求めました。

 今回は、この毛利元就の妻として、そして毛利一族の団結のシンボルとなった妙玖について御案内します。

★妙玖の生い立ち

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 妙玖は、吉川国経の娘として生まれました。

 吉川氏は、安芸国西北部に勢力を誇った大名でした。

 ところで妙玖というのは「妙玖寺殿成室玖公大姉」からとった法名です。

 だが、生前の名は不明です。

 元就が、子どもたちへの手紙で妙玖と呼んでいますので、歴史上の名称は妙玖とされています。

★良妻賢母の妙玖

 妙玖はいわゆる良妻賢母で、戦いに明け暮れる元就の留守を預かり、毛利家家臣団の信頼も厚く、当主不在の城内をしっかりとまとめ上げました。

 また、子育てにおいても、この毛利三傑といわれる三人息子・隆元、元春、隆景を、元就の教育方針に基づき、家族を非常に大切にすることは勿論のこと、他の人を思いやり、信仰心を厚い武将に育て上げました。

★妙玖の他界

 戦略家の元就は、生涯二百数百回の戦いに及び、毛利家は中国地方で随一の戦国大名へと繁栄していきました。

 しかし、妙玖は、天文十四年(1545年)十一月三十日に、四十七歳で亡くなりました。

 元就は、妙玖が生きている間は、側室はいませんでした。

 このため、元就の妻を失った落ち込みは相当のものでした。

 妻を失った元就が、嫡子・隆元にあてた手紙にはこのように記載されています。

 「この頃は妙玖のことばかりが思い出される。お前ら三人のことは言うにおよばず、娘の五竜のことも諭さねばならぬこともあるが、疲れてしまって根気もなくなってしまった。妙玖はこの世におらず、誠に語るべき者もなく、胸の中で妻を思うのみである。内をば母親が治め、外をば父親が治めるという金言は本当だと思う」

 戦いに明けくれる元就に、内助の功がいかに大切だったか、そして妙玖がいかに立派に子どもたちを養育してきたかを、元就は偲ぶのでした。

★元就の「三矢の訓」とは、亡き母・妙玖を一族団結のシンボルとして供養すること

 元就が、臨終間近の枕辺に、隆元、元春、隆景の三人の息子を呼んで、一木ずつ矢を与えて、一本の矢は折れやすいが、三本に束ねた矢は折れにくいと「三矢の訓」を与えた逸話は有名です。

 実際には、元就が亡くなるときは、長男・隆元は既に亡くなっていたので、これは作り話だと言われています。しかし、元就が息子三人に与えた教訓状は、まさにこの精神を述べたものでありました。

 その教訓状とは、毛利の家督を与えられた隆元、吉川家に出た元春、小早川家を継いだ隆景、元就はこの三人のわが子に対して、毛利と申す名字を生涯忘れてはならぬこと。更に、三人の仲が少しでも悪くなれば、三人はただただ滅亡するばかりだと戒め、隆元は元春、隆景を力と頼み、また元春、隆景は毛利のために働くことを心に念じるように求めました。

 そして、そのためにも、元就は、この三人兄弟の団結が、亡き母・妙玖への供養であり、草葉の陰で、妙玖もまたそれを願っているのだと、再三にわたり諭すのでした。

 つまり、元就は、亡き妻を、毛利一族の団結のシンボルとしました。

 兄弟が互いにいがみ合うのが普通だった戦国時代ですが、毛利三兄弟は例をみないほど団結し、毛利家と吉川・小早川の毛利両川体制によって、毛利氏は中国を支配したのでした。

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