浅井長政というと、家臣や下のものに対して、常に心配りのできる人物だったと言われています。
そして、義理堅く、戦死した家臣の娘に安堵状を送るなど、家臣やその家族を大切にしていました。
そんな性格を織田信長も気に入り、浅井家は織田家と同盟を結ぶことになり、長政は、信長の妹・お市を嫁にもらったのでした。
しかし、そんな実直な性格であった長政は、信長を裏切って、金ケ崎の戦いで朝倉軍と戦っていた信長軍に背後から攻撃を仕掛けていきます。
けれども、長政は、この攻撃で信長の命を奪うことはできず、信長、長政の両軍は、次の戦いの準備を始めるのでした。
一方、長政は、どうして信長を裏切ることになったのでしょうか?
一般的に言われているのが、浅井家と朝倉家は、祖父の代からの同盟で、信長が朝倉を攻めるときは事前に連絡するという約束を破ったからだと言われていますが、疑り深い信長がそんな浅井家の長政と同盟関係を持つということに疑義もあります。
今回は、浅井長政の視点から「姉川の戦い」を中心に御案内していきたいと思います。
目次
★浅井長政の妻・お市と三人の娘
長政の妻は、言わずと知れた戦国一の美女・お市です。信長と同盟を結んだ際に、政略結婚で信長の妹であったお市と結婚しました。
そして、長政とお市の間には、娘三人の娘が生まれました。
ちなみに、長女・茶々は、のちの淀殿となり豊臣秀頼の母となる女性です。
二女のお初は、京極高次に嫁入りしました。
そして、三女のお江は、徳川秀忠に嫁入りし、三代将軍家光の母となりました。
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★浅井長政と織田信長との同盟
前述のとおり、信長の呼びかけで、長政は織田家と同盟関係を結びました。
この頃の信長は、既に尾張・美濃・伊勢という三か国を領している大大名でした。
一方の浅井家は、北近江の、しかも、伊香・東浅井・坂田三郡の小さな戦国大名で、しかも、同盟に際しは長政に妹を嫁がせているのでした。
この同盟の時期は、織田信長の妹お市の方が浅井長政に嫁いだ永禄十年末か翌十一年早々と思われます。
おそらく、信長は、上洛というものを視野に入れ、上洛の道筋にあたる近江の浅井氏と六角氏という二つの戦国大名家を敵にまわすのは得策でないと考え、義理堅い性格の長政を味方にしておこうとしたのだと思われます。
そして、永禄十一年九月には、信長は上洛し、その際には、長政は軍勢を率いて近江で信長軍に合流しているのでした。
ちなみに信長は、同じことを徳川家康に対しても行っており、娘の徳姫を徳川家康の嫡男信康に嫁がせています。
つまり、信長は、家康と長政の二人の身内を、最も頼りになる同盟者と考えていたのだと思われます。
★浅井長政が織田信長に反旗をひるがえした戦い
しかし、元亀元年(1570年)四月、信長が越前・朝倉氏を攻め込んだとき、長政が反旗をひるがえし、浅井軍が信長軍の退路を絶つという、信長にとって思いがけない行動にでたのでした。
★浅井家と朝倉家には三代にわたる付き合いはなかった?
このときに、長政が信長に反旗をひるがえした理由として、通説では、浅井氏と朝倉氏は父祖の代からの同盟関係にあり、長政と信長が同盟を結ぶことになったとき、「もし、信長が朝倉氏と戦うようになるときには、事前に相談する」という約束を信長が破ったからと言われています。
この通説は、近世になって作成された家康伝記である「武徳編年集成」に記されていますが、この当時の史料には両家の旧好を記述したものはなく、両家が同盟関係を結んだのは、長政が信長に対して反旗をひるがえした後だという説もあります。
しかし、両家は、近隣同士であるため、父祖の代からのつながりが全くなかったとは考えてられないが、少なくとも「三世」のつながりという強固なものではなかったのではないかと、朝倉家の姉川の戦いの状況などを考慮すると思われます。
★浅井長政が信長に逆らった本当の理由
では、旧来からの同盟関係というのが大きな根拠でなかったとすると、長政は、信長軍が越前に攻め込んだときを狙って、なぜ信長に反旗を翻すことになったのでしょうか。
このとき、信長が事前に長政には知らせず、朝倉氏を攻めたことは確かなようです。
そうすると、この黙って隣国を攻めたという行為が、浅井方諸将を疑心暗鬼に陥らせた可能性があります。
その証拠に、江戸時代に遠山信奉が著わした「織田軍記」に、長政の父・久政が一門・老臣たちを前に、信長の態度を非難し、「越前より帰りがけに当城に押し寄せ、われら父子をも攻めるかもしれない」と、危機感をあらわしていると記述されているのでした。
★さらに足利義昭の御内書との関係
そしてもう一つ、考えられるのが、足利義昭との関係です。
ちょうどこの頃、信長と義昭との関係が悪化しており、義昭は、反信長統一戦線の結成に向けて、味方してくれそうな諸国の大名たちに御内書を出していました。
それまでに、浅井、朝倉の同盟がなかったとすれば、このときの足利義昭の呼びかけが長政と義景とを結びつけた、若しくはその呼びかけに、長政自身が信長の心変わりの激しさに、いずれ自分も切り捨てられるのではないかという疑心暗鬼になった可能性は高いと思われます。
★そして姉川の戦いの始まり
信長は、姉川の戦いで、浅井、朝倉軍を攻めるに当たって、金ケ崎の戦いから、一旦、兵を岐阜に集結させ、 あらためて軍事行動を開始しています。
その間、浅井・朝倉軍も手をこまねいていたわけではありません。
朝倉義景は、一族部将・朝倉景鏡を総大将とする二万の軍勢を近江に向けて出陣させているし、長政も、美濃との国境に近い刈安尾砦・長比砦などに兵を入れ、城砦を強化しました。
浅井・朝倉軍とすれば、信長軍を迎え撃つ準備は万端整った形でした。
ところが、一か月もすると、それまで近江に在陣していた朝倉軍が急に兵を引いてしまいました。
その理由は「朝倉家記」によれば、義景は、信長の進軍がすぐあるとみて近江に出陣してきたが、信長が攻めてこないので、無駄な浪費はしたくないと、越前に引きあげてしまったのでした。
たしかに、二万という大軍で、戦いもしないのに滞陣を続けるのは無駄に思ったとしても、事態が事態だけに、何も兵を引かなくてもいいのではないかと思われます。
事実、朝倉軍が兵を引いたという情報を得た信長は、すぐさま岐阜を出陣し、4日後には近江にまで進軍してきたのでした。
信長の軍勢はおよそ二万で、援軍の家康軍が五千でした。
一方の朝倉軍は、二万の朝倉景鏡が越前にもどったところに、「信長が出陣してきた」というので、再度の出陣となったが、総大将だった景鏡は、 「長期の在陣で疲れた」という理由で辞退し、代わって同じく朝倉一族の朝倉景健が総大将となって出陣することになりました。
このあたりに、朝倉軍の士気の低さと、当主義景の指導力不足が見て取れます。
そして、何と、朝倉軍が送り込んできた兵は一万でしかありませんでした。
一方の小谷城の長政の最大動員兵力は八千であり、もちろん、その八千が全員出動しましたが、浅井・朝倉連合軍は合わせて一万八千、それに対する織田・徳川連合軍は二万五千で、姉川をはさんでの戦いとなったのでした。
織田軍に対しては浅井軍があたり、援軍同士、徳川軍には朝倉軍があたりました。
緒戦、浅井軍が姉川を渡り織田軍に攻めかかり、浅井軍が押し気味でした。
ところが、朝倉軍が徳川軍の側面攻撃を受けて崩れはじめ、崩れた朝倉軍に引きずられる形で浅井軍も後退し、結局、浅井軍は小谷城に敗走し、朝倉軍も越前に向けて撤退しました。
★浅井長政の「姉川の戦い」での誤算は朝倉軍のやる気のなさ?
結局、この「姉川の戦い」は、浅井軍は、朝倉軍に引きずられて負けたような形となりました。
せめて、朝倉軍が、当初の予定どおり2万の軍を出していてくれれば、戦いの結果も自ずと変わったものになっていたと思われます。
そして、長政にはもう一つ誤算がありました。
実は、この姉川の戦いには、もう一つの信長抵抗勢力である六角義賢・義弼父子も加わる予定でしたが、最後まで六角軍は動きませんでした。
浅井長政にしてみれば、「朝倉氏、六角氏が作戦通りに動いていてくれば……」と、切歯掘腕の思いだったのではないでしょうか。
もし仮に、浅井家と朝倉家との間で、本当に「三世」のつながりという強固なものがあったのなら、長政もこんな思いはせずとも済んだように思われますね。