合戦のお話

大海人皇子(おおあまのみこ)と大友皇子(おおとものみこ)の仁義なき戦い「壬申の乱」の真相は?

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 「壬申の乱」というと、天智天皇亡き後、天智天皇の弟・大海人皇子が皇太子であったにもかかわらず、天智天皇の実子・大友皇子が皇位を継承したことから、不遇となった弟・大海人皇子が皇位継承をかけて実子・大友皇子と争い、そして天皇の座を勝ち取った戦いだというイメージがあります。

 しかしながら、皇太子制度ができるのが持統三年(689年)ですので、壬申の乱が起った天武元年(672年)には皇太子制度はなかったことになります。

 つまり、弟・大海人皇子は皇太子ではなかった。つまり不遇ではなく、単に皇位継承争いに敗れただけで、納得いかなかったので武力で勝ち取ったという可能性があります。

 歴史とは、常に勝者の都合の良いように書き換えられていることが多く、この壬申の乱もその可能性があると思われます。

 今回は、この壬申の乱について、御案内していきます。

★「壬申の乱」の通説とは

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 天智天皇とは、即位前の名前を中大兄皇子(なかのおうえのおうじ)といい、中臣鎌足と「大化の改新」を成し遂げた人物です。

 この天智天皇は、当初、弟・大海人皇子を皇太子に任じていました。

 しかし、天智天皇は晩年になると皇位を実子・大友皇子に皇位を継承したくなったため、大友皇子を太政大臣に任命して政権の中枢を担わせますが、大海人皇子には何の役職も与えませんでした。

 ところが、天智天皇は、臨終で大海人皇子に対して、皇位を大海人皇子に継承すると伝えました。

 一方、この言葉を聞いた大海人皇子は不審に思います。

 一旦は皇太子には任命されますが、その後は政権の中枢から外されて不遇な目に合ってきました。

 それであるにもかかわらず、この皇位継承の遺言には自分の身に危険が及ぶ何か裏があるのではないか、天智天皇の性格を知り抜いた大海人皇子は、すぐに出家し、皇位継承の意志がないことを示すため吉野山に入山します。

 その後、大友皇子が弘文天皇となりましたが、大海人皇子への警戒心をみせます。

 そして、兵を集めて大海人皇子との戦いに備えました。

 この弘文天皇が兵を集めているという噂が大海人皇子の耳に入ります。

 大海人皇子は、これを知ると吉野山を脱出して、有力豪族や東国の兵士らを結集し、当時の都であった近江へ進軍を開始して、「壬申の乱」が始まりました。

 そして、1か月に及ぶ戦争の結果、大海人皇子が勝利をおさめて、敗れた弘文天皇は自害しました。

 その後、晴れて大海人皇子は天武天皇として即位しました。

★大海人皇子への疑惑

 前述の内容が、壬申の乱の通説ですが、前文で記載したとおり、壬申の乱当時、皇太子制度というものがなく、この通説には大きな矛盾があります。

 そして、大海人皇子が皇太子でなかった場合、壬申の乱の大海人皇子の戦いの意義が「本来の皇位継承を取り戻す」から「本来の皇位継承者から武力で奪い取る」と大きく変わってしまいます。

 また、大海人皇子には違う疑惑もあります。その疑惑とは大海人皇子の年齢です。

 「日本書記」の記述をもとに計算すると天智天皇の生まれは626年になります。

 しかし、大海人皇子の生まれ年は、「一代要記」や「本朝皇胤紹運録」をもとに計算すると622年になってしまいます。

 つまり、弟の大海人皇子のほうが兄の天智天皇よりも4歳も年上になってしまうのです。

 このため、大海人皇子は天智天皇の母・宝皇女と高向王との間に生まれた漢皇子という男子だった可能性が高いと言われています。

 もし、そうであれば、大海人皇子は舒明天皇の血を引いていない正統な皇位継承者候補とは言えないことになります。

★では遺言の意味は?

 では、なぜ大海人皇子は皇位継承者候補でなかったにもかかわらず、天智天皇が死ぬ間際に皇位を継承すると伝えたのでしょうか?

 大海人皇子と臨終間際の天智天皇のやりとりは、「日本書記」の「天智紀」と「天武紀」に記されているが、この記載内容には違いがあります。

 「天智紀」は簡単に書き流しているだけなのに、「天武紀」は大海人皇子が、もし皇位継承を受けた場合は、大海人皇子を殺害する予定だったと記しているのです。

 ではでは、なぜ、天智天皇は、そのように大海人皇子の野心を測る必要があったのでしょうか?

 おそらく、天智天皇の晩年になって、大海人皇子は皇位継承者候補ではないにもかかわらず、言動に野心が見え隠れしてきたと解釈するのが相当だと思われます。

★「壬申の乱」って、どういう戦いだったの?

 では、これまでの話を総合すると、大海人皇子と大友皇子の皇位継承争いであった壬申の乱とは、次のような戦争であったとも考えられます。

 ・天智天皇が健在の頃、皇位継承候補は大友皇子であった。

 ・しかし、天智天皇の晩年になってくると、大海人皇子の言動に皇位を継承への野心が見え隠れし始めた。

 ・この大海人皇子の野心を測るため、天智天皇が臨終で皇位を譲ると言った。

 ・しかし、天智天皇の性格を知っていた大海人皇子はこれを受けず、反対に自分の野心を知られていることに危機感を覚えて出家して都を離れた。

 ・そして、大海人皇子は、武力を蓄えた上で、都に進軍して弘文天皇を打ち倒して天武天皇として即位した。

★最後に

 以上の内容が、壬申の乱で考えられる原因と動機です。

 これは、当然に、あくまでも一つの仮説であり、結論でもありません。しかし、繰り返しになりますが、歴史とは、勝者が自己の都合の良いように書き換えるのが一般的であり、それは人間であればある意味当たり前のことだとも思われます。

 真実は、今となっては想像の域を出ませんが、皆さんはどのように思われますか?

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