歴史上の人物

大友宗麟は家臣の妻を奪い取る毒君主

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 戦国時代、豊後の戦国大名・大友氏は宗麟の時代に勢力を大きく広げました。

 それは、博多を支配することにより、対明貿易、対朝鮮貿易で利益をあげて得た財政力を軍事費につぎこみ、勢力を伸ばすというように流れていきました。

 また、宗麟には、先見の明があり、西洋医学を取り入れ、託児所を設けるなど、善政を行います。

 しかし、彼には、悪い癖が二つありました。

 一つ目が酒宴にふけり過ぎること、二つ目が家臣の妻を奪って側室にしてしまうということでした。

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 そして、宗麟は、この悪癖のために、国力を弱らせる事態を招きます。

 今回は、大友宗麟について、ご案内します。

★大友氏の九州における位置づけ

 前述のとおり、大友氏は宗麟が当主のときに、その勢力を拡大します。

 そして、豊後・筑後・肥前・肥後の四か国の守護職を手にし、さらに、一時は筑前・豊前の二か国の守護職も得ているのでした。

 九州は、その名のとおり9か国から構成されており、宗麟はその内6か国の守護職に補任されていたのでした。

 もちろん、戦国時代なので、守護職そのものはほとんど意味をもたず、肥前では龍造寺氏が台頭し、また、南から薩摩の島津氏が力をつけてきたので、6か国を完全に支配できたわけではありませんが、少なくとも、龍造寺氏・島津氏とで九州を三分する一大勢力であることは間違いありませんでした。

★大友宗麟の勢力拡大

 宗麟が家督を継いだ頃、筑前の博多を支配していた大内氏が家臣の陶晴賢の下剋上によって倒されます。

 そして、その陶晴賢も、厳島の戦いで毛利元就に倒されてしまいました。

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 しかし、この頃の毛利氏の勢力はそれほど大きなものではなく、大内氏との戦いには勝ったものの、一気に筑前にまで勢力を拡大しようとしたときに、毛利氏を退けて、間隙をぬう形で博多を支配下に置くことに成功しました。

 そして、宗麟は、博多を支配することで、対明貿易、対朝鮮貿易で利益をあげ、そうして得た財政力を軍事費につぎこみ、さらに版図を拡大していったのでした。

★大友宗麟がキリスト教を布教したのは金儲けのため?

 この当時、日本にとっての異国といえば明と朝鮮だけでした。

 しかし、宗麟が博多を支配下に置いたころ、もう一つの異国としてポルトガルが日本にやってくるのでした。

 そして、宗麟は、キリスト教イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが周防山口に滞在し、布教活動をしていることを知り、ザビエルを豊後の府内に招きます。

 ザビエルが府内を訪れたのは、天文二十年(1551年)八月ですが、その一力月後には、ポルトガル船が豊後の日出沖に到着して貿易を開始したのでした。

 つまり、宗麟は、イエスズ会に領内での布教を許可する代わりに、ポルトガル船を来航させ、貿易を始めるのでした。

 そして、この後、宗麟は何度もボルトガル商船を豊後に来航させ、貿易によって大きな富を得ることに成功しました。

★大友宗麟が日本で初めての託児所を設置する

 また、宗麟は、日本で初めてとなる育児所を設置します。

 この当時、人びとは貧しく、しかも避妊の知識がないため、妊娠すれば、育てられないと判断された胎児は、堕胎とか間引をするしかありませんでした。

 このため、このような子供を育児所が引き取り、親に代わって育てたのでした。

 この施策は、キリシタン大名大友宗麟だからこそできたものでしたが、宗麟の先進性を示すものでした。

★大友宗麟が日本で初めての西洋医術の病院を設置する

 その他に宗麟の先見の明を示すものとして、西洋医術を取り入れた「府内病院」の開設があげられます。

 これは、日本で最初のヨーロッパ医術を取りいれた病院で、そこでは外科手術も行われ、それまでの迷信的、あるいは加持祈祷に頼っていたような状態から大きく前進しており、多くの人々がこの病院によって命を救われるのでした。

★大友宗麟は真剣で剣術の稽古を行う

 一方で、宗麟はこのような名君主としての面ばかりではなく、暴君としての顔も見せていました。

 よく知られているのが、剣術の稽古に真剣を使って行うことでした。

 この当時、九州に流行していた大捨流という剣法にこった宗麟が、近習の若者相手に稽古をしたとき、宗麟は真剣を使って稽古をしたのでした。

 この稽古相手をする若者は、たまったものではありませんでした。

★大友宗麟に酒宴をやめさせるため、家臣・立花道雪は計略する

 また、あるときには、政治を全く行わず、連日連夜に及んで酒宴に明け暮れたともいわれています。

 そして、宗麟が酒宴をするときは、特にお気に人りの近習たちだけなので、家臣たちの中に、宗麟に対して諌言をしようと思った者がいても、宗麟に近づくことができませんでした。

 このため、家臣の一人立花道雪は、酒宴にふける宗麟に諌言をする機会を作るため、一つの計略を考えます。

 それは、上方から美しい踊り子の一座を自分の屋敷に呼びよせ、そこで踊らせたのでした。

 踊り子たちの美しさ、舞の優美さはたちまち城下の評判となり、そのうわさは宗麟の耳にも届きます。

 わざわざ家臣を京・大坂に遣わし、上方の美女探しをさせていたほどの宗麟なので、「家臣の道雪の屋敷に美しい踊り子たちがきている」と聞いて黙っているはずがなく、すぐ道雪に「踊り子を連れて登城せよ」との命令がありました。

 道雪はその踊り子をともなって登城し、そこで舞を舞わせましたか、舞が終わったところで、「酒宴ばかりなさらぬように」と諌言できたというものでした。

 このように、酒宴の場から遠ざけられている老臣の立場からは、このような機会を作らないかぎり、宗麟に会うことすら難しい状況でした。

★大友宗麟は家臣の妻に手を出し始める

 また、宗麟には悪い癖がありました。それは、家臣の妻に美貌な者がいれば、それを取りあげ、側室にしてしまうというものでした。

 記録されているだけで、7人の家臣が泣かされたのでした。

 そして、家臣としては、泣き寝入りするしかありませんでした。

 ところが、重臣の一人、一万田親実の妻を取りあげたときだけは別でした。

 宗麟は、あるとき一万田親実の妻が美貌なのに目をつけ、親実に無実の罪をなすりつけ、殺してしまい、未亡人となった彼女を自分の側室にしてしまったのでした。

 この一万田親実には、やはり宗麟の重臣であった高橋鑑種という兄がいました。

 高橋鑑種は、弟が無実の罪で殺され、しかも妻まで奪い取られたことに怒ります。

 ちょうど毛利元就からの誘いがあったこともあり、宗麟に反旗を翻したのでした。

 結果的に、このときの高橋鑑種の謀反は成功しなかったが、宗麟はこの鎮圧に三年という歳月を費やさなければなりませんでした。

 そして、この鎮圧がかなり大友氏の国力の衰退の原因の一つとなったのでした。

 その後、大友宗麟は、秀吉の傘下となり、島津氏との戦闘中に死亡します。

 ちなみに、その死亡した原因は、自身が力を入れていた貿易によってもたらされた伝染病でした。

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