歴史上の人物(女性)

妻木煕子は明智光秀が愛した妻

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 明智光秀の妻は美人で貞節であったと言われているが、妻の名ははっきりしません。

 歌舞伎では、光秀が沐推寺に出撃する前に詠んだ「ときは今あめが下知る五月哉」の連歌によって、皐月と呼ばれ、また操の高い女だったとして、操とも言われています。

 更には、「絵本太閤記」には妻木煕子とあります。

 ここでは、史料として残っている妻木煕子でご案内していきます。

★明智光秀の妻・煕子の生い立ち

 煕子は、明智氏と同じく美濃の土岐氏一族で、土岐郡妻木村(岐阜県土岐市)の代々領主であつた妻木勘解由左衛門範煕の娘で、範煕の子どもたちは皆、光秀に属したとされる。

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  光秀は斎藤道三がその子・義竜に討たれたことで、美濃を去り、全国を遍歴したのでした。

★妻木煕子が黒髪を売って光秀を支える

 「名将言行録」には、煕子の貧しい頃の光秀の妻が描かれています。

 光秀が貧賎だったとき、朋友が集まって輪番に酒宴をして談話をしたことがありました。

 光秀の順番になったので、その由を妻に告げましたが、この頃の明智家は朝タの食事も満足に調わないほど貧しかつたので、酒宴など思いもよらぬことでした、

  しかし、煕子は快く引き受け、やがて朋友たちが打ち集まると、他のどこよりもまさって、酒肴も立派に調理されていました。

 皆が帰ったあと、光秀が不思議に思い尋ねると、煕子は女の命である黒髪を切って売り、酒肴を揃えたとのことでした。

★光秀が信長に仕えてチャンスを得る

 光秀は、この煕子の黒髪を売ったというの行動に感激し、妻の恩に報いるために努力を重ねました。

 そんな光秀に信長に仕えるというチャンスがやってきます。

 信長は、身分にかかわらず、成果主義で家臣を登用してくれました。

 光秀は、やがてすぐれた資質をあらわして、近江坂本で五万石、丹波亀山で二十九万石と計三十四万石の大名へとのし上がっていったのでした。

 しかし、光秀は、大名に出世しても、夫につくした気だてのやさしい妻にこたえて、ついに生涯一人の側室も持たなかったのでした。

★妻木煕子の美人で貞節なエピソード

 また、「落穂雑談一言集」には、煕子の美人で貞節なエピソードが語られています。

 ある日、信長は側近と女の話をしていたところ、ある側近の一人が「光秀の妻ほど美しい女はいない。天下一の美女だ」と言いました。

 このため、信長は是非、煕子を見たくなって、朔日と十五日に家臣の妻たちを出仕させることにしました。

 そして、煕子が出仕する日、長廊下を歩いてきます。

 そこへ信長は物かげから飛び出して抱きつくと、煕子は、信長を扇でおもいっきり叩いたというものでした。

 この話しは、どこまでが事実なかは不明ですが、彼女が美しく操の高い女だったことを示している逸話として語られているものだと思われます。

★子宝に恵まれた煕子

 煕子は八人ほどの子宝に恵まれています。

 特に、細川忠興に嫁いだ玉は、ガラシャ夫人と呼ばれて有名です。

 また宣教師フロイスは、その息子たちについて「非常に上品で、ヨーロッパの王子を思わせる」とほめており、煕子がいかによく子どもたちを養育したかを物語っています。

★本能寺の変のあとの妻木煕子

 煕子は、本能寺の変のあと、城と運命を共にしたといいます。

 「明智軍記」によれば、煕子は、本能寺の変のあと、夫・光秀が小栗栖で亡くなり、明智家の居城・坂本城に秀吉軍が迫ってくると、娘婿の明智秀満と守将の明智長閑斎らの評定の場に現れて、坂本城が敵に包囲される前に、家来たちを逃がし、城に火をかけ一族うちそろい自害すべきだと主張しました。

 そして、あくまで運命を共にしたいと願う家来一人ひとりと対面し、これまでの忠勤を感謝し、また米とお金を渡して、城から出した、賢夫人だったと述べています。

  天正十年(1582年)六月十五日、夫・光秀の死におくれること二日、娘婿の秀満の刃を受けて、坂本城は落城の炎に包まれたと語っています。

★妻木煕子の最期に諸説あり

 しかし、煕子の最期には諸説があります。

 その中て、有名なものをご紹介します。

 信長の比叡山延暦寺の焼き打ちのあと、再興した西教寺が、坂本にあります。

 ここに明智一族の墓を中央に、左に一族の供養塔があり、右に煕子の墓があります。

 この墓について、西教寺では天正四年十一月七日に亡くなった煕子の墓だと伝えられています。

 これは、あくまでもいい伝えですので、墓がいつできたかは不明ですが、煕子が亡くなったとき、光秀が喪主になり、西教寺で葬儀を上げたと伝えられています。

  また、、「名将言行録」は黒髪を売ったという話しが語られている史料ですが、その中て、ここで美徳の妻を語る最後は「この妻が死んだ時、昔、髪を切った恩に報いんとして、光秀は自ら葬送の供をした」としめくくられており、煕子は光秀の存命中に死んだとされています。

★最後に

 最後になりますが、煕子は、美しく賢夫人として伝えられているがゆえに、史料や言い伝えも諸説あり、事実としてどうだったのかは、今となっては不明です。しかしながら、個人的な煕子のイメージとしては、坂本城と共に没したという説を信じたいですね。

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