西郷隆盛というと、明治維新の最大功労者と言われており、上野公園にある銅像、肖像画など日本人には馴染みが深いところです。
しかし、この西郷、最後は、明治10年(1877年)に、西南戦争という近代日本史上最大の内戦を起こしています。
西郷の郷里のかつて武士階級だった鹿児島士族が、西郷をリーダーとして担ぎ出し、戦争を仕掛けたのである。
しかし、西郷には、もともと決起する気などありませんでした。
では、なぜ、西郷は決起することになったのでしょうか?
そこには、討幕、明治維新とともに戦った大久保利通の罠が見え隠れするのです。
今回は、この西郷隆盛が西南戦争に踏み切らざるを得なかった状況を御案内します。
目次
★明治維新による士族の不満
幕末、武士階級だった者たちは、明治維新によって、新しい日本が作られ、自分達の未来も明るいものだと思っていました。
しかし、戊辰戦争が終わり、新政府が取り決める新しいルールは、「四民平等」の名の下、武士として持っていた特権を奪い取るものでした。
これにより、かつて武士階級だった士族は、不満を爆発させ、佐賀の乱、萩の乱など次々と反乱を起こしていきます。
鹿児島においても、その新政府を動かしているのが、自分たちがついこの間まで、「イチゾー」と呼んでいた大久保利通であったため、相当な不満が溜まっていました。
しかし、その当時、新政府内で「征韓論」を繰り広げていた西郷隆盛は、木戸孝允に宛て「鹿児島の者たちが決起をうるさく主張するので、鹿児島には戻りたくない。」という手紙を送っており、のちに自分が西南戦争を起こすというのは考えられない状況でした。
そして、「征韓論」政策に敗れた西郷は、新政府での居場所を失い、鹿児島に戻ります。
★私学校の設立
明治6年(1873年)に新政府内で「征韓論」政策に敗れた西郷は、東京に居場所を失ったため、鹿児島に戻りました。
そして、西郷は、特権を剥奪されて不満を募らせた「士族階級」の教育のために、私学校を設立します。
設立当初は、800名程度からスタートでしたが、そこは鹿児島の英雄・西郷が作った私学校ということで募集者が殺到し、ついには分校が130以上も設立され、在籍者は3万人以上となりました。
そして、新政府となって作られた鹿児島県職員や、警察官などに多くの私学校出身者が採用され、要職を占めていくようになります。
すると、鹿児島は、更に新政府の通達・命令を無視するようになり、次第に私学校は軍隊のようになり始め、新政府の権力が及ばない西郷の独立国のようにも見えるのでした。
★これに対する大久保利通の対応
この私学校をこのままに野放しにしたのでは、新政府は周囲に面目が立ちません。
ましてや、新政府の中心人物である大久保利通は、鹿児島出身であるため、その思いは余計にありました。
このため、、大久保利通は策を考えます。
まず、明治10年(1877年)1月に、鹿児島出身の警察官ら23名をスパイとして潜入させます。
彼らの任務は、敵情視察と私学校の内部分裂を工作することでした。
しかし、この作戦はすぐに私学校側にばれてしまい、捕らえられたスパイは西郷の暗殺計画を自白しました。
★西南戦争のきっかけは、私学校生徒が陸軍火薬庫を襲ったことだった
さらに、同じ頃に、新政府は、私学校が鹿児島県にある新政府の陸軍火薬庫を襲うことを恐れて弾薬の移動をします。
汽船を派遣して、鹿児島県内各地の武器弾薬庫から次々と銃器や弾薬を運び出したのでした。
一方、これを知った私学校生徒は、鹿児島から政府が武器を奪おうとしていると激怒します。
ちなみに、鹿児島県内にある武器弾薬庫は、旧薩摩藩が建て、その中にある武器弾薬も旧薩摩藩が購入したものでしたので、これらの武器弾薬庫は自分たちのものだという意識が強くありました。
このため、私学校生徒は、鹿児島県内の陸軍の武器弾薬庫や海軍造船所を襲撃し、銃器や弾薬を略奪しました。
この私学校生徒が自分達の武器が取られないように行った行為は、要するに新政府の陸軍の施設を襲うこととなり、つまりは国家への反逆を意味するものでした。
このため、私学校として、後戻りができなくなってしまいます。
このとき大隅山で狩猟に興じていた西郷は、知らせを受けて「しまった!」と 叫び、もはや挙兵以外に道はないと悟ったと言われています。
★どこまでが大久保利通の策略か?
以上のような経緯で始まった西南戦争ですが、どこまでが大久保の策略かというのは、諸説分かれるところです。
ある意見では、大久保の策略で、スパイを潜入させた目的は私学校を挑発する目的であり、彼らが捕まって西郷暗殺計画を自自するのも、予定通りの行動だったという意見もあります。
また、鹿児島県内にある武器弾薬庫から銃器や弾薬を移動したことについても、私学校を挑発するために行ったという意見もあれば、その頃の私学校の近くに武器や弾薬を置くのが危険だったため、必要に応じて移動したという意見もあります。
しかしながら、実際に、大久保利通は私学校生徒の武器弾薬庫襲撃事件が生じた後、「これで正々堂々、その罪を責めて鹿児島を討てる」と腹心の伊藤博文に手紙を出していますので、物事は大久保利通の思い通りになったのは明らかでした。
★大久保利通の陰謀?
新政府の大久保利通にとって、戊辰戦争で最強と謳われた鹿児島士族は最も警戒すべき相手でした。
さらに、鹿児島士族を西郷隆盛が率いるとなると、その破壊力は凄まじいものがありました。
そして、新政府を樹立した当初の軍事力では太刀打ちできそうにありませんでした。
しかし、徴兵制度を敷き、近代的常備軍を創設したことで、ようやく鹿児島士族に勝てる軍備が揃います。
こうして、大久保利通は、薩摩を討つチャンスを待っていたが、西郷はなかなか動かないため、自ら挑発行為に出たというのが、この説です。
しかし、西郷と大久保は、実家は近所の幼なじみであり、討幕から明治維新を共に戦った仲間でした。
もし仮に、大久保の陰謀が、私学校を潰すということにあったとしても、西郷を死に至らしめるところまではなかったと信じたいですね。
★西南戦争のきっかけをわかりやすく要約
それでは、内容を要約しますと次のとおりです。
・西南戦争は西郷が決起した戦争ではなく、やむを得なく始めた戦い。
・戦争が開始された原因は、2つあり、一つ目は政府の西郷暗殺計画がバレたというもの、二つ目は鹿児島の武器弾薬庫を運びだして衝突したもの
・特に、二つ目の新政府の陸軍の武器弾薬庫を襲うという、政府への反逆行為となり、西郷は戦争を始めざるを得ない状況に追い込まれた。
・しかし、この西郷が戦争を始めざるを得なくなった状況は、大久保が意図的に作り出したのではないかと言われている大久保陰謀説がある。
・その真偽のほどは不明であるが、仮に大久保が陰謀を仕掛けていたとしても、西郷が命を落とすところまでは想定していなかったと信じたい。