皆さんは、「鳥居強右衛門」(とりい すねざえもん)という武士の名前を御存知でしょうか?
彼は、あの織田信長と武田勝頼が戦ったとして有名な長篠の戦いで活躍した人物です。
この鳥居強右衛門の功績が認められて、愛知県に「JR鳥居駅」という駅の名前にもなっています。
そして、徳川家康は、武田勝頼が強右衛門を処刑したことを聞き、こう言ったといいます。
(意訳)「だから、武田勝頼はダメなんだよ。あいつはバカだよ。」
では、強右衛門の功績はどのようなものだったのでしょうか?
100人を斬り捨てた?違います。
往復130キロを泳いで、走ったのです。味方500人の為に。
そして、最後に、自分が処刑されることを覚悟して、長篠城を守る味方500人の為のために叫びます。
「援軍は来る!もう少しだ!」
その言葉は、捕らわれの身となってしまった自分の命を懸けての叫びでした。
それでは、その内容を御紹介していきます。
目次
★武田勝頼による長篠城の攻撃
強右衛門は、戦国時代の長篠城城主・奥平信昌の家臣でした。
ときは、天正3年5月、長篠城は、徳川領の城として、対武田家の防衛の最前線の地にありました。
ときの武田家の当主は、勝頼の代になり、亡き父・信玄の功績を乗り越えようと、必死に領主経営を行い、領主拡大を図っていました。
実際、武田家の領地は、信玄が当主であった頃と比較して拡大しており、更に拡大すべく、徳川領地の長篠城を1万5千人の兵で取り囲みました。
★長篠城は難攻不落の城ではあるが・・
これに対する長篠城の兵は500人と僅かな人数でしかありません。
長篠城は、2つの大きな川に囲まれた高台にあり、天然の要塞となっている上に、堀は外濠、中濠、内濠と3層になっており、難攻不落の堅城でした。
特に、武田家の攻撃を想定して、新しく増築した中濠は、薬研濠と呼ばれ、深さ3メートル、角度60度のV 字型の堀であり、これを乗り超えるには相当に困難でした。
このため、さすがの武田軍も、効果的な攻撃を行うことができず、長篠城の五百人の兵は、その兵力差にもかかわらず、城を死守していました。
しかし、ここで、戦況に変化が生じます。
武田軍から放たれた火矢が、城内の兵糧庫を焼失させます。
食糧という大切なものを失った長篠城は長期籠城から、あと数日で、落城しかねないというピンチに追いつめられました。
★鳥居強右衛門が援軍要請のため岡崎城へ
この状況において、長篠城城主・奥平信昌は、徳川家康のいる岡崎城に援軍を要請しようと決断しますが、城の周囲を武田家の大軍に取り囲まれており、容易なことではありませんでした。
そして、この任務に志願したのが、強右衛門でした。
ちなみに、強右衛門は、身体能力が高く、走る、泳ぐなどを得意としていること、また、身分が高くないため、武田方に顔を知られていないこと、などから適任とされました。
深夜、強右衛門は、城の下水口から、城を囲む川を潜って出発し、泳ぎ続けます。
そして、武田軍の包囲網の外に出た後は、岡崎城までの片道約65キロメートルをひたすらに走り続けました。
一方、岡崎城では、織田信長が、武田軍との決戦のため、3万人の兵を率いて到着していました。
そして、翌日にも、長篠に向けて出発する予定であることを強右衛門は知ります。
信長は、片道65キロの道のりを不眠不休で来たのであるから、一晩休んでいくように言いますが、強右衛門はこれを断り、あっという間に長篠城に向かって走り去っていきました。
★鳥居強右衛門が武田兵に捕らえられる
強右衛門は長篠城に近くまで到着しますが、城内付近で敵方の武田兵に見つかってしまいます。
武田勝頼は、強右衛門と家族の命を助けてやる条件として、「援軍は来ない。」と伝えよ、指示します。
また、指示に従えば、武田家の家臣として厚遇するとも約束しました。
勝頼は、城内が「援軍は来ない。」と知ることにより、士気を衰えると考えての指示でした。
これを受け、強右衛門は、指示に従う旨で約束してしまいました。
★鳥居強右衛門の最後は死を覚悟しての叫び
武田勝頼の指示に基づき、強右衛門は長篠城から数十メートルのところまで武田兵に連れてこられます。
そして、多くの長篠城の兵士が見ている中、大きな声で叫びます。
「援軍近し!」
この結果、強右衛門は、指示に従わなかったとして、長篠城から見える場所に磔にされ、処刑されます。
しかし、この鳥居のとった行動に、長篠城の兵士は大いに悲しみつつも、士気は上がり、籠城を耐え抜いたとされています。
★鳥居強右衛門を賞賛して旗となる
織田信長は、長篠城の味方全員を救うために自ら犠牲となった強右衛門の最期を知って感銘を受け、その忠義心に報いるために立派な墓を建ててやったと伝えられています。
また、敵である武田家家臣の落合左平道久は、彼のとった行動にほめたたえ、磔にされている強右衛門の姿を絵に残して、旗指物に掲げたと言われています。
そして、徳川家康は、次のように語り、本気で武田勝頼を軽蔑していたと言います。
「勝頼は大将の器ではない。なぜなら、勇士の使い方を知らない。鳥居のような豪の者は、敵であっても命を助けて、その志を賞してやるべきである。これは味方に忠義ということがどういうものかを教える一助になるのだ。 自分の主君に対して忠義をつくす士を憎いといって磔にかけるということがあるか。いまに見ていよ。勝頼が武運尽きて滅亡するときは、譜代恩顧の士も心変わりして敵となるであろう。あさましいことだ。」
さすがに、後の天下人ですね。
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最後に、鳥居強右衛門の功績は、地元では現在も語り継がれ、愛知県にある「JR鳥居駅」は、彼の名前を由来とするものです。