目次
★秀次事件をかんたんに
秀次事件とは、秀吉が甥の秀次を養子に迎え、関白職まで譲ったにもかかわらず、高野山で自刃させ、さらに、秀次の妻妾らとその間に生まれた子どもたちまで合わせて三十九人を京都の三条河原で虐殺といってよい殺し方で一族の根絶やしをはかった一連の出来事です。
この事件で、秀次一族だけでなく、連坐した大名・家臣もかなりいて、豊臣政権にとってもかなり大きな出来事でした。
★秀次事件のはじまり
この事件がおこったのは、文禄四年(1595年)七月三日でした。
秀吉の奉行たち、前田玄以、富田知信、増田知信、石田三成が秀次のいる聚楽第に乗りこんできて、「謀反の疑いがあるので実否を糾明したい」といってきたのがことのはじまりでした。
その内容は、秀次らが鹿狩りと称して山中で落ちあい、謀反の相談をして山中で落ち合い、謀反の相談をしているといううわさがあるというもので、子細を●穿繋したいというものでした。
これは、秀次にとって、まさに青天の霹靂のようなことだったと思われます。
秀次は、これらの問いかけに、「謀反をおこそうなどと考えたことはない」と返答します。
そして、奉行たちに誓紙を出したとされています。
残念ながら、そのときの誓紙は残っていないため、どのような文面だったかは分かりませんが、四人の奉行たちはそれをもって秀吉のもとに戻りました。
★豊臣秀次が秀吉から高野山行きを命じられて切腹する
ところが、不幸にも、これで一件落着とはなりませんでした。
この四人の奉行たちが訪問した五日後の七月八日、あらためて秀吉から「伏見にくるように」との呼び出しがありました。
このため、秀次が伏見に行くと、木下吉隆の屋敷に入るようにいわれ、そこに入ったところ、高野山行きが命じられました。
そして、このまま、秀次は弁明の機会も与えられず、高野山を上り、七月十五日に切腹したのでした。
★豊臣秀次の一族も処刑される
その後、秀次の妻子たちの処刑はおよそ半月後の八月二日に執行されています。
これで、四人の奉行たちが秀次の聚楽第を訪れてから、わずか一か月で秀次一族と関係者が処分されてしまったのでした。
★秀次事件は単なる濡れ衣&ねつ造
この事件の特徴としては、秀次が疑いをかけられてから切腹するまでの一か月間、秀次とその関係者に対して、謀反の実否の糾明が行われた形跡は一切ないということでした。
つまり、これは「謀反の疑いがある」というのは、何となく、秀次を追い落とすための口実に使われただけで、それに伴って秀次の妻子一族も処刑されたという、とても理不尽な事件です。
そして、この秀次事件に関する史料では、高野山における秀次自刃の模様を記したあと、「なぜ、秀次がこのような憂き目にあったのか」の説明として、謀反については一切触れられず、秀次の暴虐ぶりだけが強調されているのでした。
★では豊臣秀次は暴君だったのか?
その豊臣秀次の暴虐ぶりを示すものとしてよく知られているのが、院崩御の服喪期間中であったにもかかわらず、秀次が鹿狩りをやったことが記されています。
その内容は、「院の御所にたむけのための狩なればこれをせつせう関白といふ」という落書きがあったことが残されているのです。
これは、秀次は摂政関白であるが、それをもじって"殺生"関白と表現していたというものでした。
そして更には、秀次が女人禁制の比叡山に女性をつれて登り、山内が殺生禁断の聖地であるにもかかわらず、そこで鹿狩りをし、止めようとした僧侶たちが蓄えていた塩酢の器の中に、獲った鹿の肉などを突っこんだと、子どもの悪戯のようなことをした様子が記述されています。
また、秀次は、北野天神に家調したとき、一人の座頭といきあった際、その座頭をなぶり斬りにしたとか、鉄砲の稽古のため、田畠にいる百姓を標的にして殺したといったようなことが、次々と記述されているのでした。
★秀次事件は「謀反」から「暴君」への論点のすり替え
これらの記述は、要するに秀次は「殺生関白」だった。暴君である。だから秀吉によって自刃させられたのだという論法でしかありません。
つまり、謀反の疑いが、いつの間にか秀次暴君論にすりかえられているのでした。
そして、このような場合、暴君説というのは史実として信用できるものではありません。
つまり、史料というのは、あとに残った勝者の都合の良いように書き換えられていることが多く、途中で論点が変わっているもののほとんどが勝者の都合で史実から歪められている可能性が高くなっています。
したがって、この場合の秀次の悪行の数々は、史実ではないと考えられます。
さらに、秀次を高野山に追放した直後の七月十日付で、秀吉が吉川広家にしたためた書状(「吉川家文書」)の中で、秀吉は「今度、関白、相届かざる子細之有るについて高野山へ遣はされ候」と述べています。
この 「相届かざる子細」の意味が具体的に何を示しているのは分かりませんが、文字通り意味を理解すると、細かなところの意志疎通ができなくなってきたというような意味で解釈するのか普通であり、少なくとも謀反を企んでいたというものではないと思われます。
★ではなぜ豊臣秀次は切腹しなければならなかったのか?
しかし、一方で、謀反の企てなどなく、暴君でもなかったとすると、どうして秀吉は秀次を切腹させたのだろうかという疑問が生じます。
この疑問を考えるためには、秀頼のことを考慮しなければならないと思われます。
淀殿は秀吉との間での長男になる鶴松を生んだが、鶴松はわずか三歳で亡くなってしまいました。
このとき秀吉は、「もう実子はできないだろう」とあきらめ、甥の秀次を養子とし、関白職まで譲ったのでした。
ところが、その後、淀殿が再び懐妊し、文禄二年(一五九三)八月三日、秀頼が生まれます。
秀吉としては、実子が生まれた以上、実子に豊臣家を譲りたいと考えていましたが、はじめから秀次排除に動いたわけではありませんでした。
★豊臣秀次の娘を秀頼と結婚させようと思っていたが・・・
秀吉は、秀次に関白職を譲ったことについて、仕方ないこととして考え、秀次の次に秀頼を関白にする方策を取ろうしていました。
具体的には、秀頼と、秀次の娘を結婚させ、秀次の次の関白に秀頼をすえるという壮大な計画でした。
ところが、秀吉は、自分が体力的に衰えてきたことを自覚し始めた頃から考え方が変わっていきます。
そして、秀頼への溺愛から老人性の性急さが悪いほうに働き、「自分の目が黒いうちに秀次を排除したい。」との思いに変化していったと思われるのでした。
★豊臣秀次を排除したもう一つの理由
それと、考えられる理由としてはもう一つあります。
秀次は関白となりましたが、一方で実権を握っている秀吉との間に、少しずつ路線の対立が生じはじめていたと思われる点です。
これを示すのは、先ほども御紹介した秀次を高野山に追放した直後の七月十日付の、「吉川家文書」です。
ここには、前述のとおり、「今度、関白、相届かざる子細之有るについて高野山へ遣はされ候」と記述されており、秀吉と秀次の間で細かなところを意志疎通ができなくなってきたと漏らしています。
つまり、秀吉としては、「秀次が自分の思うようにならなくなってきた」と感じているのだと思われます。
また反対に、このような秀吉と秀次との間ですれ違いが生じていなければ、いくら我が子・秀頼を溺愛していたとはいえ、何の罪もない甥の秀次の命を奪ってしまうようなことはなかったと思われます。
そして、甥がしだいに勝手なことをするようになってきた、このままだと自分の死後は、もっと勝手な振る舞いをするのではないか、そして、関白の職も秀頼にではなく、秀次の子に継がせるのではないか、そうすると今のうちに秀次を排除しておらなければならない、という思考過程で秀次の命を奪ったものと思われるのでした。
このように、秀次にしてみれば、おそらく意見の少しのスレ違いが生じたところから、感情的にわだかまりが生じて、挙句の果てには暴君に仕立て上げら、更には切腹させられて、妻子も処刑されてしまったのですから、本当に可哀想ですね。