皆さんは、鶴姫という人を知っていますか。この鶴姫は、落城のとき、自身がおかれた不条理に納得ができないと敵陣に向かって戦いに挑んだ女性です。
戦国の世に生まれた武家の娘は、少女のころより、武術や馬術を学び、いざのときに戦える準備をしていましたが、落城を前にして、侍女30名余りを連れて、敵の大将に斬り込んでいった女性はほとんどいないと思います。
今回は、戦国時代の常山城城主の上野高(隆)徳の正室・鶴姫について御案内します。
目次
★鶴姫の実家三村氏のお家事情
毛利氏の支援を受けて、備中の実力者となった三村氏は、備中松山城を居城とし、三村家親の強力なリーダーシップでまとまっていましたが、宇喜多直家の刺客によって、興禅寺というお寺で暗殺されてしまいました。
このため、その嫡男・三村元親が家督を継ぎます。
元親も毛利氏の支援を受けていこうと考えていましたが、毛利氏が宇喜多氏と手を結んでしまいます。
このため、元親は、父を亡きものとした宇喜多氏と同席はできぬと毛利氏に離反して、織田信長と手を結びます。
これを不満とした成羽城の分家の三村氏は元親とたもとを分かち、毛利につきました。
このような経緯で、信長と手を結んだ三村元親は、天正三年(1575年)五月、毛利氏の攻撃を受け、備中松山城は主戦場となりました。
★備中松山城での戦いの敗因
「備中兵乱記」によれば、この戦いで三村家親が敗北するきっかけは、石川久式の妻と娘が敵軍の人質になってしまったことだとされています。
久式の妻は元親の妹(家親の長女)でした。
久式は居城の崩侃城(岡山県総社市清音)を捨て、元親と心を一つにして戦うため、妻子を伴って、三百の家臣と一緒に松山城天神ノ丸に籠城しました。
異変は久式が元親のいる小松山の本丸に出向いた隙に起きました。
毛利軍へ内応した二人が野菜運搬人に変装し、門番をだまして曲輪内にまんまと入り込み、アッという間に久式の妻と息女を捕らえました。
気付いた家臣三十人ほどが、槍、長刀で刃向かい、妻と娘を奪い返そうとしたが失敗してしまい、逆に野菜運搬人に変装した二人の合図で毛利方が天神ノ丸に攻め込んできました。
本丸にいた元親は、天神ノ丸の先にある大松山の将士と天神ノ丸を挟み撃ちにし、妻娘の奪還を指令したが、大松山にいた将士の多くが離反してしまいます。
この動揺は、すぐ本丸にも伝染してしまい、城内から離反者が続出して、これに乗じて敵方も乱入してきたため、ついに元親は城を放棄せざるを得なくなりました。
備中松山城から逃げ出した元親は、急峻な崖の抜け道から高梁川を渡って阿部深山まで逃げたが、菩提寺である松蓮寺にまで戻ってきて切腹しました。
★そして、常山城も毛利軍に攻撃される
勢いに乗った毛利軍六千五百は、この備中松山城陥落の翌月、上野高(隆)徳の常山城(岡山県玉野市・岡山市)を攻めました。
この常山城主の上野高徳の妻を鶴姫といい、三村家親の二女、つまり1か月前に切腹した元親と、野菜運搬人に捕らえられた久式の妻の妹でした。
戦いは、常山城を毛利軍が包囲した二日後、大手門の木戸が破られてしまい、敵がニノ丸に攻め寄せ、夫・高徳は自ら鉄砲で応戦しますが、落城は時間の問題でした。
夫・高徳は一族の自決をきめました。五十七歳の高徳の母が、そして十五歳の嫡子・高秀が、高徳の十六歳の妹が、自決していきました。
★しかれども戦う鶴姫
しかし、この場に及んで自害する前に、このままでは納得できないと怒りを露にする女性がいました。
それが、この当主・上野高徳の正室・鶴姫でした。
鶴姫にしてみれば、毛利氏は、鶴姫の実家三村氏が宇喜多氏に遺恨も持っていることを知りながら宇喜多氏と同盟を結んだこと、更には1か月前の備中松山城の戦いで、毛利氏は女子供をさらうという汚い戦法で、自分の実家を滅ぼして、兄・元親を切腹に追い込んだことが許せませんでした。
このため、鶴姫は敵軍に向かっていく覚悟を決め、鎧を付けて戦闘準備を整えます。
この鶴姫の鎧の袖に、春日局以下の女房たちが取り付いて、「女は五障三従の罪によって、普段でも成仏できぬと申します。戦うことなどとんでもございません。そんなことをなされば死後、修羅の責め苦は免れませぬ。いまはただ心静かにご自害をなされませ。」と説得しました。
すると鶴姫は、大きな声で高笑いして、「そなたらは女のことゆえ、敵も殺しはいたすまい。どこへなりとも一足先に落ちのびなざれよ。われは正も邪も一つと観念し、この戦場を西方浄土とみ、修羅の苦しみも、極楽のいとなみと思えばなんで苦しいことがあろう」と、皆を振り切って打って出ていきました。
これに春日局らは「やはり散るべき花ならば、おなじ嵐にさそわれて、死出三途の道案内をしようではござらぬか」と、髪をとき乱し、鉢巻きをし、ここかしこに立て置いていた長柄の長刀を引っ提げ、三十四人の女房たちがわれ先にと駆け出せば、長年恩顧をこうむった家僕たちもこれを見て、八十三人が一緒に死のうと敵方陣中へと走り出ていきました。
このようにして、鶴姫と34人の女房は、家僕を前面に毛利の先陣・浦野兵部宗勝七百騎の真っ只中へ斬り込んで行きました。
★鶴姫の決死の突撃
このような状況で飛び出して来た死を決しての突撃に、毛利勢は数十人が討たれます。
ここで、鶴姫は、腰にさした銀の采配をとり出し、真っ先に進んで「かけ破れ、ものども」と大勢にかけ合い、息もつかず戦いました。
そして、鶴姫は、毛利方の先陣の浦野兵部宗勝を馬上に見つけ「われと一勝負つかまつらん」とただ一文字に斬りかかりました。
これには、宗勝は閉口します。そして、「御身は強きにせよ、女なれば相手にできぬ」と逃げました。
すると、鶴姫は、横合いより斬りかかる雑兵を長刀で七、八人なぎ伏せましたが、ここで浅手を負ってしまいました。
ここで、浅手を負った鶴姫は、宗勝との勝負を諦めました。
そして、腰の刀を抜き出して「これは父、三村家親の秘蔵の国平が名作、死後はそなたにさしあげよう。後世を弔ってくだされよ」と言い置いて、素早く城内へと引き返して行きました。
この見事な引き際に、毛利方は舌を巻いて見ているだけでした。
★鶴姫の最期
城内に引き上げた鶴姫は、夫・高徳のもとに戻ります。
そして、夫と一緒に南無阿弥陀仏を念じながら、太刀を口にくわえ、そのまま身をうつ伏せに倒して鮮血の中に三十三歳の命を絶ちました。
高徳も、妻・鶴姫の最期を見届けて自刃し、常山城は毛利方の手に落ちてしまったのでした。
このように、壮絶な最期を迎えた鶴姫ですが、亡くなる前はどんな気持ちだったのでしょうか?
無念であったのには違いありませんが、ある程度は、敵方に一泡吹かせたという満足感もあったのかも知れませんね。