目次
★柳生宗矩の生い立ち
柳生宗矩は、元亀二(一五七一)年、「柳生新陰流」の剣の達人として知られていた父・石舟斎の五男として、大和国「柳生ノ庄」(現在の奈良県柳生町)で生まれました。
そして、幼き頃から、剣の道を学んでいきます。
しかし、戦場の主役は弓矢、鉄砲などの飛び道具が主役となり、剣術は時代遅れとなっていました。
また、柳生ノ庄は、交通の要衝に位置するため、常に周辺の大名たちの争いに巻き込まれていきます。
そこで、柳生家は、生き残りを賭けて、敵方に潜入して情報を探り出す「忍びの技」を身につけていきます。
そんな中、豊臣秀吉の太閤検地において、柳生家は領地の一部を隠したとして、所領のすべてを没収されてしまったのでした。
★柳生宗矩は徳川家康に召し抱えられる
領地を没収されてしまったため、柳生一族は、先祖伝来の土地を追われ、近江国(今の滋賀県)に移り住むことになります。
このような柳生家に転機が訪れたのは、文禄三(一五九四)年のことでした。
柳生の剣を見たいという徳川家康からの依頼が舞い込んできたのです。
石舟斎は、家康を柳生新陰流の極意「無刀」で倒し、それをきっかけに宗矩は家康に仕えることになりました。
家康が宗矩に与えた禄高は、二百五十石でした。
宗矩はこれを足がかりに柳生家を再興しようと心に決めます。
そして、六年後の慶長五(一六〇〇)年、関ヶ原の戦いが起こります。
戦いを前にして、宗矩は家康から命令されます。
「柳生に戻って石田三成たち西車の動きを探り、周辺の武士たちを糾合して西軍に対する攪乱工作を実行せよ」というものでした。
この命令によって、宗矩は自分に期待されていたのは剣ではなく、「忍びの力」だったのかと、強い絶望感を味わいます。
当時の武士たちにとっては、忍びは、誉れというよりも恥だと考えられていたからでした。
しかし、柳生家再興のためには、家康の命に従うしかありませんでした。
関ケ原の戦いの後、宗矩に柳生の領地が再び与えられましたが、後ろめたい務めで悲願を果たした宗矩の胸中には複利な思いが渦巻いていたのでした。
★幕府は柳生宗矩を剣ではなく忍びとして利用する
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長八(一六〇三)年、江戸に幕府を開きます。
しかし、秀吉の忘れ形見・豊臣秀頼に心を寄せる大名たちは多く、徳川幕府はその力を削ぐために腐心することになります,
そして慶長二十(一六一五)年、大坂の陣で豊臣家は滅亡します。
そして、その戦いが終わりを告げた二か月後、家康と秀忠は京の伏見城で諸大名が守るべき掟として、「武家諸法度」を発布しました。
その内容は、幕府は各地の有力大名たちを次なる敵と見なし、兵力増強を防ぐため新たに浪人を召し抱えることを禁じたり、隣国に怪しい動きがあれば、ただちに密告することなどが定められたものでした。
一方、宗矩は将軍・秀忠に剣を教える指南役となり、柳生新陰流は天下にその名を高めることができました。
北は仙台・伊達家から南は肥後・加藤家まで、名だたる大名が宗矩の門弟を伺し抱え始めましたが、この全国にまたがる宗矩と門弟たちとのつながりは、同時に幕府の情報網でもありました。
つまり、幕府は宗矩に忍びの働きを担わされ続けたのでした。
そして、その宗制に大きな衝撃を与える事件が起こります。
家康の死から五か月後、津和野城(今の島根県津和町)の城主・坂崎成正が挙兵したのです。
成正は将車・秀忠から、豊臣家に嫁いでいた娘・干姫の再婚先を探すよう頼まれていましたが、成正がまとめた縁談は捨て置かれ、幕府は別の再婚相手を勝手に決めてしまいました。
面目を潰された成正は筋目を通そうとしたものでした。
★柳生宗矩の親友に対する熱い思い
坂崎成正は宗矩の親友でした。
この坂崎成正の挙兵に対する事態収拾のため、ただちに宗矩が召し出されました。
将軍・秀忠と幕府の重臣たちは、「成正の不満ももっともである。成正一人が謀反の責任を負って切腹すれば、罪を許し坂崎家は在続させよう」と申し渡しました。
この幕府の申し渡しを受けて、宗矩は成正と面会して説き伏せました。
そして、宗矩の言莱を信じた成正は自害して果てました。しかし、幕府は坂崎家を取り潰してしまいました。
坂崎家は、かつて関ヶ原で敵対した宇喜多氏の一族であり、幕府には、元々許す気など毛頭なかったのです。
徳川の家臣として生きる道を選んだことで、結局、友を欺いて死なせてしまった、宗矩は深い絶望にうちひしがれるのでした。
★柳生宗矩は『活人剣』に開眼
宗矩が生きる目的を失いかけていたこの頃、ある人物が宗矩に一筋の光を投げかけます。
禅僧の沢庵です。
ある時、沢庵は宗矩に向かって、「十人が刀で斬りかかってきてもそれに負けない方法がある」と言います。
是非それを教えて欲しいという宗矩に、沢庵は「それは心を動かさぬことである。向かってくる相手一人一人に心を動かしてはやがて防ぎきれずに斬られてしまう。いっさい心をとどめず受け流すこと。このこだわらぬ心こそ動かぬ心だ」と詰ります。
剣の誇りや、仕事への迷い、そうした目先の事に惑わされず、より大きく物事を見るべきだというのでした。
宗矩は、沢庵のこの言葉で、初めて剣の道と人生とを重ね合わせます。
そして、この頃、宗矩は、新たな主君に出会います。
元和七(一六二一)年、宗矩が剣術を教えることになった将軍家嫡男、後の三代将軍・家光です。
家光は武芸を好む若者でしたが、家臣を手討ちにしたり、夜、町で辻斬りをしたりしているとささやかれるほど、粗暴な一面を持っていました。
それは、両規の徳川秀忠夫妻に疎まれたことが影響していました。
このため、宗矩は、家光に生き方に迷い続けた自分の姿を重ね、家光の指導に情熱を注ぎます。
そして、家光もまた、宗矩を父観のように慕っていきました。やがて宗矩は、家光のために、『兵法家伝書』をまとめます,
それには、「悪を殺してあまたの人びとを活かす。それができれば人を殺すための刀も人を活かす剣になるはずだ」と記載されていました。
そして、悲惨な戦乱が二度と起こらぬ太平の世を築く、その信念があれば、たとえ刀をふるっても、多くの人を活かす『活人剣』となる。宗矩は家光に説き続けたのでした。
★柳生宗矩は天下太平を願う
一方、元和九(一六二三)年、秀忠が将軍の座を家光に譲ります。
そして、将軍の座を争った忠長は、父・秀忠に大坂城と百万石の領地を求めました。
宗矩は、このままでは、再び天下を二分する大乱を招いてしまうと危機感を募らせます。
宗矩は、家光の天下を確かなものとするため、門弟たちを忠長の重臣として送り込み、付け入る隙を探させるのでした。
そして、寛永九(一六三二)年、忠長は改易され、上野国(今の群馬県)に流されます。
その後、忠長は翌年、高崎城で自害して、戦乱の火種は消し去られたのでした。
この忠長の改易から二か月後の寛永九年十二月、宗矩は、惣目付、のちの大目付に任命されました。
それは、大名の動静を監察する役職でした。
★徳川家光と柳生宗矩は「武家諸法度」の改正する
そして寛永十二(一六三五)年六月二十一日、家光と宗矩は新たな武家諸法度を発布します。
「いかなる場合でも、幕府の命令の無い限り、大名は軍事力を行使してはならない」
「大名は領民の暮らしの安定だけに心を砕くべきである」
そこには戦乱の芽を摘み、半和を永続させる狙いが込められていたのでした。
家光は後に、「吾天下統御の道は、宗矩に学びたり」と語っています。
『活人剣』が武家諸法度を変え、徳川幕府は、その後の二百三十年余り続く太平の礎を固めたのでした。
★柳生宗矩の名言
寛永十三(一六三六)年、宗矩は一万石に加増され、大名となりましたが、その十年後、病に倒れてしまいます。
死を悟った宗矩は、幕府から与えられた地位も富もすべて返上し、正保三(一六四六)年、その生涯を閉じます。
享年七十六歳でした。
宗矩が後の世に残したものは、柳生の剣と宗矩の代から用いられた柳生家の家紋「二蓋笠」だけでした。
その家紋は元々、宗矩の説得で自害した友人・坂崎成正の家紋でした。宗矩は成正の死を心の澱として終生抱き続けました。
そこには将軍家の指南役であったというプライドは一切ありません。
己の弱さや失敗から目をそらすことなく向き合い続けていたのでした。
最後の宗矩の言葉です。
「こうしようとひとすじに思う心こそ、人が誰しも抱える病である。この病を必ず治そうというこだわりもまた病である。自然体でいること、それが剣の道にかなう、本当にこの病を治すということなのである」