足利義昭というと、室町幕府最後の将軍です。
彼は、天正元年(1573年)に織田信長によって京都を追われます。
それによって、歴史上の年表では、室町時代は終わって安土桃山時代となりますが、足利義昭は毛利氏を頼って鞆の地で幕府を開き、征夷大将軍であり続けました。
また、彼は朝廷でも征夷大将軍を辞したのは、天正十六年(1588年)に受戒して、名を昌山と号した時であり、つまり関白秀吉、征夷大将軍義昭の時代が2年間も続いたのでした。
そして、朝鮮出兵の際には、秀吉の依頼を受け、肥前国名護屋まで参陣しています。
今回は、室町幕府最後の将軍・足利義昭について御案内します。
目次
★足利義昭は織田信長に擁立されて十五代将軍となる
足利義昭は、永禄十一年(1568年)織田信長に擁立されて京都に上洛し、第十五代の征夷大将軍になりました。
義昭は、十三代将軍だった義輝の弟で、義輝が松永久秀らに襲われて殺されたあと、自分を将軍に擁立してくれそうな大名を探しました。
そして、越後の朝倉義景に白羽の矢を立てて頼りましたが、最終的に朝倉義景は全く動く気配を見せませんでした。
すると、捨てる神あれば、拾う神ありで、朝倉義景に仕えていた明智光秀が間に入って信長を紹介し、信長のおかげで上洛して、晴れて室町幕府の征夷大将軍将軍になることができたのでした。
★織田信長と足利義昭との確執
前述のような経緯で室町幕府十五代将軍となった義昭ですから、当初は義昭も信長にとても感謝していました。
しかし、合理主義者の信長からしてみれば、義昭を擁立したのは、あくまで上洛のための手段であり、自己の「天下布武」のために使ったに過ぎませんでした。
このため、信長は、次第に将軍権限に縛りをかけ始めまたのでした。
すると、義昭としては、当然のことながら、これに反発します。
征夷大将軍として、信長の操り人形のまま終わりたくないという思いを持つようになりました。
★足利義昭は武田信玄と手を結んで織田信長へ反旗をひるがえす
信長と義昭との二人の関係がギクシャクしはじめたので、義昭は他の大名に対して、御内書という形で手紙を出します。
そして、信長排除に動きだし、遂には、公然と反旗をひるがえしだしました。
義昭が、このような公然と反旗をひるがえしたのは、義昭が最も頼りにしている武田信玄の上洛を取り付けたことによるものでした。
しかし、武田信玄は、西上の途中、病死してします。
信玄は死に際し、子勝頼に、「当分の間は喪を隠せ」と遺言しており、勝頼がそれを忠実に守ったため、義昭は信玄の死を知らされず、「信玄が大軍を率いて西上している」という情報に踊らされ、信長と敵対することになったのでした。
★足利義昭が織田信長に京都から追い出される
まもなく武田信玄がやってくる、それを信じた義昭は、宇治の槙島城に拠って信長に対抗します。
しかし、信長はすぐさま大軍で槙島城を包囲して、義昭は降伏しました。
ちなみに、歴史上の年表などでは、この日をもって室町幕府が滅亡したと記されています。
★足利義昭は京都を追われ毛利輝元を頼る
このあと、義昭はまず三好義継の若江城に送られ、堺、さらに紀伊の由良を経て、船で備後の鞆へ下ります。
どうして、備後の鞆の地へ行ったのかは、義昭が信長に対して反旗をひるがえすことを決意したとき、武田信玄だけでなく、毛利輝元の応援もあったため、義昭は、信玄亡きあと、頼れるのは毛利輝元しかないという気持ちであったのだと思われます。
一方の毛利輝元も、どこまで応援する気持ちがあったか分かりませんが、いきがかり上、自分の領国で義昭を保護することに同意したのでした。
そして、歴史上は、義昭が京都を追われた天正元年に室町幕府は滅亡し、そのあとの義昭は征夷大将軍ではなく、ただの人ということになりますが、義昭は身分上は征夷大将軍を解任された訳ではなく、鞆の地で鞆幕府を開くことになるのでした。
★足利義昭は鞆に移り住んだ後も将軍であり続けた
足利義昭は、鞆に移り住んだ後も将軍であり続けました。その根拠は二つあります。
一つ目は、朝廷の高官職員録ともいうべき「公卿補任」に、義昭が出家する天正十六年(1588年)一月十三日まで、「従三位、権大納言、征夷大将軍」となっている点です。
何と、義昭は、京都を追われても、将軍職は解任されていなかったのでした。
次に根拠の二つ目は、鞆にいた義昭が、自ら将軍としてふるまっていたのでした。
幕臣だった真木島昭光・上野秀政・畠山昭賢らに囲まれ、そして驚くべきことに、将軍としての立場で、堂々と諸大名に御内書を出し続けていたのでした。
つまり、義昭が天正四年(1576年)二月八日に鞆の地に落ち着いて以降、鞆幕府が樹立されていたことになるのでした。
★足利義昭の晩年は秀吉の御伽衆となる
その後、本能寺の変を経て、信長の死亡後、義昭は毛利輝元に上洛の支援を求めます。
しかし、毛利輝元が羽柴秀吉に臣従し、秀吉が関白太政大臣となったため、義昭が征夷大将軍として室町幕府を復興させるという夢は終わりを告げたのでした。
ちなみに、義昭は、身分としては、なおも征夷大将軍であり続けました。
このため、「関白秀吉、将軍義昭」という時代が2年間も続いたのでした。
そして、義昭もついに将軍職を辞するときがやってきます。
天正十六年(1588年)に秀吉に従って参内し、将軍職を辞したのちに受戒し、名を昌山と号して、山城国槇島で一万石の所領を与えられました。
さらに、秀吉たっての要請により、朝鮮出兵の際には、由緒ある奉公衆などの名家による軍勢200人を従えて肥前国名護屋まで参陣したのでした。
そして、享年61歳で亡くなりますが、晩年は、秀吉の御伽衆に加えられ、太閤の話相手であったとされています。